こ は る び よ り 探 偵 日 記 ― 第二話 古都の憂鬱
第四章「泣いた赤鬼」
1
昇の見舞いに行ったその日は、家に帰ってからずっとあの縁側に座って過ごした。食事の準備が出来たと義母が呼びに来るまで、今日は真珠が遠慮深そうに現れる事も無かった。今日は学校があったから、その所為もあっただろうと思う。
私は擦り寄ってくるサブローを撫でながら、様々な事に思いを巡らせた。
明日は――……何処へ、行こう。
そんな事をサブローに尋ねたところで返ってくるはずもない事は判っているのに、つい声に出している自分がいた。ちなみにハルはサブローを避けて部屋の中に入ったまま出てこない。もうそろそろ、父親を説得する為の手段に出たいところなのだが――……それより前に、事件を解決しない訳には、行かなかった。仮にも友人が襲われたのだ。
「……ケーキでも焼こうか……」
特に意味は無かった。だが、それ以外に今の私に出来るような事もなかった。基本的な材料なら近所のスーパーで充分揃うのだから、今の私には持って来いの「暇つぶし」だ。尤も、暇ではないから暇つぶしと呼べるかどうかは判らない。気を紛らわす為の無駄な行動と言うのは、日本語で何と表現されたのだったか――……。
ああ、現実逃避か。
「――直実」
太い、男の声が突然耳に届いた。私は慌てて振り返る――……父親の、声だったからだ。
「……鬼を見るような目で見んでもいい。こんなところで何をしている」
「何って……サブローと戯れるぐらい、別にいいじゃないですか」
「そんな事をしている暇があったら――……お前も『プロ』なのだろう、珠実を手伝いなさい」
「食事の準備ですか?」
「直実はいつの間にコックになった」
調理師免許なら持っているが。まぁ、そういう意味で言っているのではないのだろうが――……その言葉が嫌味なのか冗談なのか、あの仏頂面では判らない。
だがどちらにしろ、言われている意味は同じ、ノーだ。
「……お義母さんがケーキを?」
珍しいと、思った。
「判ったならさっさと行けばいい」
私は立ち上がって、彼の横を素通りした。それから振り向きもせず、思った事をそのまま呟いた。
「…………彼女の腕なら……私が手伝うまでもないと思うんですけど」
「……直実」
声のトーンが変わった。効果はあったらしい。私は振り返って、父の様子を窺った。
私の顔を見て、父はうんざりしたような声で語り始めた。
「どうしてそう……お前は素直なのかそうでないのかよく判らん。嫌なら嫌だと言えばいいだろう」
「……貴方の口調が命令形だからでしょう」
「真珠も……お前の兄も、そうではなかった」
「真珠や兄さんと私は別の人間です。反応が違うのは当然だ」
兄の事を引き合いに出される筋合いは無かった。私はムッとして反抗した。それが通じたのかどうかは、よく判らない。
「お前には『術』という強みがある。かつての兄には劣ろうが、術師であるお前が――何故そう、中途半端な態度でいられるのだ」
質問の意味が判らなかった。
私だって人間だ。
術が使えようが使えまいが――……そんなものは、この話には関係ない。
「自信が無いのか、直実」
「! ……どうして」
「ふん、図星だな。だからワシも気に入らんのだ。術師なら術師らしくしていなさい」
「貴方に言われる事ではありません。術師である事を世間に知られては――……いけないのですから」
「だがそれは『使ってはいけない』という意味ではない。直路は普段から――」
「だから、それで命を落としたんだろうが!」
私は思わず叫んでいた。
父は普段より少し、目を見開いた。あれで驚いているのだろう。
私は叫び続けた。
「あまり調子に乗って下手な事をするから……あんな事態になった。母さんも、葉摘さんまで巻き込んで死んだ……誰の所為だ? 何も出来なかった僕の所為か? あぁ、そうかも知れない。でもそもそもの発端は兄さんの所為だろう!? だから……だから気にしてきたのに、どうして今更そんな事を言い出す」
「だからと言って術を廃れさせれば、それは」
「貴方も前時代的な人なんですね。もしまた私が調子に乗って命を落とせばそこで終わり。貴方は一体何を期待しているのです?」
「まだ判らんのか。術師にとっての術は命と同じ――……使いすぎて破滅する事もあろうが、全く使わなければそれもまた破滅に繋がる」
父は真剣な目を私に向けた。
決して、私を馬鹿にするような目ではなかった。改めて、彼のこんな目を見たのは――……初めてだと思った。
父は更に続けた。
「お前は知らないかも知れないが――……『術師』は、お前の他にも存在するのだ」
「……え?」
今、彼は何と言ったか。
「世間は広いようで狭く、また狭いようで広い――……直実、お前の知らない世界もこの世にはあると言う事だ。覚えておきなさい」
父はそう言ってニヤリと笑うと、私の横を通り過ぎて去っていった。
私には何も言えなかった。
私の他にも――……術師は、存在すると?
それはもしかすると、彼らの方から私に近づいてくるという事も……有り得るのか。
私がその場に立ち尽くしていると、一体何処から聞いていたのか――ハルが現れた。
「! 人の話を」
「サネ、聞けよ。冷静に考えれば判る事だろ。お前はナオミチの弟で、それでいて術が使えるんだろ。じゃあ何だ、お前の母さんとか祖母ちゃんとかに兄弟居なかったのか?……そんなモン、俺が知る訳ねェけどよ、」
「……ハルに言われなくても判る」
「でも今の今まで気付かなかったんだろ? 所詮そんなモンなんだよ。思い込んじまったらそれで終わり。……術師は何でも出来る。油断すれば……殺される事だって、あるかも知れない」
「ハル!」
「サネだって不安なんだろ、俺だって同じだよ! 多分、今俺が一人で放り出されたら……生きてなんて行けねェから、だから……サネにくっついて生きてんだよ。誰かと一緒に居ない限りは、俺は多分……ただの殺人鬼になるしかねェんだよ」
そうは、させたくない。
でも――……絶対にさせないとは、言い切れない自分も居る。
私に、他の術師に対抗出来うる力はあるのかどうか――……全く、想像がつかないからだ。
私以外の術師など、兄以外には見た事が無い。
彼らが、味方となるか敵となるかさえも、判らないのだ。
「……その時は、その時……どうにもならなければ、そこで終わり」
「サネ」
「いずれは私が先に死ぬ。その後でハルが殺人鬼になろうがなるまいが、私には責任は無い。殺人鬼になりたくないなら、食肉業者にでもなったらどうだ?」
「…………冷血人間……」
「誰がだ」
私はハルの脳天に鉄拳を下してからキッチンに向かった。
何とも言えない、気分になった。
2
その翌日、また私は朝食を摂ってすぐに出掛けた。行き先は決まっていなかった。ただまた何となく近所を回って、気が向いたら神社にでも行って、また気が向いたら病院にも行こうかと思っていた程度だった。
特に何処へ行こうとも思っていなかったので、私は何も考えずに駅の方に向かって歩き始めた。神社は素通りした。曲がり角に全国的に美味だと評判の洋菓子チェーン店がある。既に店は開いていた。私が何となく腕時計を見直すと現在時刻は午前八時半。こんなに早く店が開けられると言うのは尊敬ものだ、と思いつつまた素通りした。先刻朝食を摂ったばかりの腹にデザートの土産は父も義母も要らないだろう。私も今は要らないし、真珠は小学校へ向かっている頃だ。ハルは――……人間の食べるものなど、そもそも口に入れようとはしない。
「……ケーキ屋の、方に走ってった」
私はふと足を止めた。
晃介は――……そう、証言したはずだ。昇も同じように、ケーキ屋のある方に犯人は走っていったと、そう言った。
「……晃介は犯人を追っていったんだよな……?」
でも昇は、その事について一言も話していない。晃介が戻ったら昇は起きていたはずなのに、どうして昇が晃介を一度も見ていないのだろう?
何かが――……やはり、奇妙しい。
私の知らないところで、何かが確実に、動いている。私はそこで踵を返し、神社の方に向かった。
*
階段を上ったところでいつものように晃介がそこにいるはずも無く、私は建物の方に彼を探しに行った。そこら辺に関しては私も伊達に彼とは付き合っていない。普段どの建物にいるのかぐらいは認識している。訪ねて行くと、晃介はちょうど朝食を食べているところだったらしい。私は彼の食事が終わるまでしばらく待った。
「何だよサネ、こんな朝早くから……早起きだなお前も」
「余計なお世話だ」
普段はもっと早い、と返すと、今度は職業病と返された。言い返せなかった。
「……で?用事は?」
「ちょっと一緒に外に出てくれないか?」
「? あぁ」
私は晃介を連れて、鳥居のすぐ下、昇が倒れていた辺りに向かった。
「……ここがどうかしたのかよ?」
晃介は何かを疑うような目つきを私に向けた。
私はそこから階段の下を見下ろした。
「……晃介」
「何だ?」
「晃介が見た犯人は、ケーキ屋の方に走って行ったんだよな?」
「? あ、あぁ……あっちだ、階段下りて右」
そう言って、晃介は私が先刻見た洋菓子店とは逆の方向を指差した。
その方角にあるのは、洋菓子店『ケーキ屋』ではなく――……喫茶店だ。
晃介は私の店の事も『ケーキ屋』と認識していた。
無論、私の開く店は洋菓子店ではない――……ケーキは作ってこそいるが、喫茶店のはずだ。
これ以上はもう――……何を言っても、無駄だ。
ここまで来たら、どうしようもない。
――……私はそこまで、友達思いの優しい人間ではなかった。
私は再び口を開いた。
「……奇妙しいな?晃介は犯人を追っていったんだろう?勿論、犯人の後を」
「は?」
「昇は晃介について一言も証言しなかった。って事はもしかしたら、犯人を追う晃介を犯人と勘違いしたのかも知れない。その時晃介は帽子被ってたか?」
「え?あ、あぁ……そうだ、そう、被ってた被ってた。そうだな、そうかも知れねェな。あいつ、すぐ早とちりすっから」
飽くまでケラケラと明るく笑いながら、晃介は答えた。
私はそれを聞いてから――……冷静に、返す。
「そう、じゃあ間違いない。でも――……だったらどうして昇は、その逃げる晃介が……こっち、左に逃げたと証言したんだろうな?」
晃介が絶句したように見えた。いや――していただろう。
「そ……れは」
「犯人を見失って逆に行ったか?それも無いよな。だったらそんな事、証言しなければいい。
――晃介は犯人が逃げた方向を右という事にして、それを警察にも話した。そう勘違いするように、だ。でも実際には昇の目撃情報も入っていた――……そこは誤算だったかな」
「な……何の話だよ、誤算って……お前、俺の事疑ってるのか?」
「今更だよ、晃介……警察ももう気付いてると思う。後は時間の問題だ。逃げたければ逃げろ。私は関知しないからな」
晃介は表情を変えた。
それから突然笑い出したかと思うと……それを止めて、私に向かって何かを話し始めた。
「あはははッ、何だよ……逃げたければ逃げろって? サネお前、俺は昇に怪我をさせた犯人なんだぞ? それに対して『逃げろ』は無いだろ!! そしたらお前だって」
「私は関知しないって言っただろ、関係ない。……晃介、どうして昇を殴ったりした?」
「そんな事は関係無いだろ! お前にだって知られたくない事はあるんだよ。そういう事はな、捕まってから警察にでも話すさ。サネに話して、何処に伝わるか判んねェからなッ」
そういう問題か、とも思ったが――突っ込めなかった。
晃介は更に続けた。
「アイツも馬鹿だよな? 俺の後姿を目撃しときながら『犯人』としか見てないなんてな。それで俺だと判ってりゃ、一発で逮捕できたものをさ」
「昇は判ってたよ。きっと」
私がそう言うと、晃介ははっとしたような表情になった。それから慌てて私の方を見つめて、何かを嘆願するような口調でこう言った。
「ど……どうしてそう思うんだ? それじゃあどうして……どうして昇は」
「私が昇の部屋に行ったとき……彼は私が事件の事を調べるのを芳しく思って居なさそうに見えた。それが第一に奇妙しいと思った。関わるな、って言われてるように思えたんだよ。今まで随分付き合ってきた人間だ、後姿見れば晃介だって判らないはずないだろ、昇が」
「……じゃあ……どうして言わないんだよ、俺が犯人だって」
「捕まって欲しくないからだろ。自分が証言すれば、晃介は間違いなく捕まる。でもそれは嫌だった、って事じゃないのか? 単純な話だろ」
だからこそ私も、素直に捕まれとは言えなかった。だからと言って逃げるのに協力するとも――……言えなかった。
それが本当に世間で『友情』とか言われているモノだと言えるのかどうかは、私には判断できない。
私が、友人を警察に突き出すほど正義感に溢れた人間だとは思えない。だが逃亡を幇助するほどの事も出来ない。結局は――中途半端な人間でしかなかった。そんな事しか出来ない自分を何とかしたいと思ったところで――……どうにもならないのが、現状だった。
「……後は……晃介次第だ。私は、帰る」
「昇は……まだ俺の事……」
これ以上、私には何も言えなかった。
結局何も出来ない自分が、哀しかった。
*
少し近所をぶらぶらして、家に帰った。
だが帰ったところで特にする事は無く――……私は久し振りに、兄が好きだと言ってくれたチーズケーキを焼いた。まだ昼食前だったので、ハル以外で家に居たのは父と義母だけだった。「食事前に菓子など食えるか」とのたもうた父は放っておいて、義母と私とで一切れずつ食べた。二日連続で自家製ケーキを焼く事になったが、義母は特に気にしていないようだった。残りは真珠に、もしかしたら食べるかも知れない父の分も残しておいた。
そういえば、幼かった私の『失敗作』をよく片付けてくれていたのは兄だった。あの縁側に二人並んで座って、私が持ってきたケーキ一切れを、二口か三口かで飲み込んでいた。今考えるとそれはそれで凄い人だった。確か――……十一年か十二年前だっただろう。私は中学一年か二年の頃で、兄は大学に入った頃だ。
『どんなモノでも美味しく食べたいと思うだろ?だからね、いつも自分に術を掛けてから食べるんだよ』
本来の味よりも美味しく感じるようにね、と笑いながら兄が話したのを憶えている。
『……それって、不味いって言ってるようなモノじゃんか』
ムッとして私がそう返すと、兄はまた微笑んで、私をからかうような口調で答えた。実際、からかっていたと思う。
『元が美味しくても不味くても、元以上になればそれでいいだろ。別に私は、サネのケーキが不味いだなんて一言も言っていない』
『……屁理屈。不味いのは僕がよく判ってるよ』
『じゃあサネにも掛けてあげようか?』
『! い、要らないよ……ッ。そういうのは、自分でやるモンだよ』
私の訴えに、兄は少し切なげな顔を見せた。それから掛けていた自分の眼鏡を私に押し付けた。私は思わず目を閉じる。
『ん……ッ、何だよッ』
『今、その眼鏡に術を掛けた。目を開けて?確かお前、こないだの視力検査で少し落ちてたつったろ』
兄の指示通り、私は瞼を開いた。
『……あれ?兄さんの眼鏡、伊達じゃなかったっけ』
眼鏡を上げたり下げたりしながら、私は何故見え方に違いがあるのかと疑った。
度の入っていないはずのレンズを通して見たところで、私の視力が矯正されるはずが無い。
『だから術掛けたっつったろ。何だ、サイズ合いそうじゃねぇか。お前もおっきくなったなー。そんじゃやるよ、それ。私は別に、無くても平気だからなッ』
『あ……ちょっと、兄さん』
『葉摘に会いに行ってくるから!父さんに宜しく頼む。下手な事で怒られちゃ堪んないからな』
ケラケラと笑って、兄は縁側から飛び降りると、私に手を振って走っていった。
兄の術は本当に強力だった。
その時のものが、今私が使っている眼鏡なのだから――……効果は十一年以上経っても持続していると言う事だ。本人が亡くなって、既に十一年も経過している。無論、十一年間私の視力に微妙な変動が無かったとは言わないが、実用に堪えるのだからそれでいい。
――……これが今、私が兄の存在を実感できる唯一の『物』。
私は自分の部屋に戻って、何も無いと思っていた押入れの扉を開けてみた。
そこには、昔私がそこに仕舞っておいた物が全てそのまま――……残っていた。
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