こ は る び よ り 探 偵 日 記 ― 第二話 古都の憂鬱




第三章「夕暮迷宮」

   1

 結局予定を変更して、私は部屋で自宅から持ってきた本を読んでいた。こんな時にケーキを作っている余裕など無い。無論、文字を眺めていたところでその内容がまともに頭に入ってくるはずも無かった。
 しかし何とも、判らない事だらけだ。第一、昇が襲われた理由が判らない。そもそも昇はどうして神社に居たのだろう。晃介に会いにでも来たのだろうか――……昨日も会ったのだから有り得ないことではない、か。それに犯人の意図もよく判らない。昇を襲って何の役に立つと言うのだろう。確かに彼は毒舌だが、そこまで人に恨まれるような性格ではないはずだ。真面目だし、人との約束を破ったりするような事もまず無い。ならどうして、犯人は彼を襲う必要があったのか――……。
 殴った、と言うのも妙だ。昇は階段の上に居たのだから、カッとなったと言うのなら階段から突き落とす方がはるかに速いし確実だ。本人が起き上がれる程度にしか殴れないのなら、その方がよほど危険だろう。と言う事は、犯人は最初から彼を襲うつもりだった――……計画的に。
 私はため息を吐いた。本を閉じて、何をするでもなく考える。
 一体今、何が起こっているのか――……私に、何が出来ると言うのか。

 部屋の扉が静かに開く。そこに立っていたのは、ハルだった。
「食事出来たってよ。――……何凹んでんだよ。オマエが凹んでたら俺も調子狂うだろッ! ほら、元気出しやがれッ」
 そう言いながら、ハルは私の首を思いっきりくすぐり始める。私はくすぐりには弱くない。
 それぐらい、ハルだって判っているはずなのに。
「……やめろ」
 私はハルの耳を力いっぱい引いた。叫び声が聞こえた。
「いたた、痛いだろッ!? サネッ、俺は何もオマエに痛いコトはしてないはずだぞッ!! 何で俺が痛い目に遭わなきゃいけねェんだッ」
 必死になって私を指差しながら叫ぶハルの姿が、妙に純粋に見えた。
 考えてみれば――……私の方がよほど、世間の波に埋もれて汚れてしまっていたのかも知れない。
 また、ため息が零れた。
「な、何だよサネ……俺なんか変な事言ったか?しょ、食事だぞ食事、さっさと来いよ」
「……ハル」
逃げようとしていたハルを引き止めると、彼は恐る恐る振り返った。
「私で……構わないのか?いつもそうしてお前で遊んで、まともな扱いされなくても、それでも私でいいのか?その――……『ご主人様(マスター)』がさ」
「だって、オマエしか居ねェじゃん」
「じゃあ別の人間がハルの主人になってもいいと言ったら――……お前はそれに従うのか?」
 ハルは少し、考え込んだ。
 それからいつもより小さな声で、答えた。
「……いくらそいつがオマエよりいいヤツで、俺の事虐めなくて血ィくれたとしても……、俺のコトは、そいつには判んねェだろ」
「……?」
「俺とオマエはついこの間突然出会って、気付いたら虐められてますって関係じゃねェだろ。サネがどういうヤツかぐらい、俺だって判ってんだよ」
 ならば私にもハルの事は判っていると、そう言いたいのか。
「言っとくけどな、サネ。俺様がフツーのニンゲンに従えられるほどのレベルだなんて思うなよッ。じゃな、さっさと食事行けよ!そんでもってさっさと食えよッ」
 そう言い残して、ハルは跳ねるように走っていってしまった。
 普通の人間に従えられるほどのレベルではない――……それはつまり、自分の力を持ち上げていると同時に、私の事も褒めているつもりなのだろうか。いや――……そうだ。彼が、素直に私を褒めるような事を言えるはずが無い。
 素直に言えないから、いつもひねくれた答えが返ってくるのではないか。
 私は安堵のため息を吐き、部屋の電気を消して食堂に向かった。恐らく、皆私の事を待ってくれている事だろう――……早く、行かなければ。

   *

 食事が終わった後、私は再び朝居た縁側に向かった。そこから見えるのは三本の梅の木と、あまり綺麗ではない池。中に魚が居た時代もあったらしいが、私が生まれた頃には既に何も居なかったと聞いている。気になるのは、サブローが落ちやしないかと言う問題だが――……池の周りにお粗末な柵が設置されているだけで、サブローがそこを潜らないと言う証拠は無い。そんなにヤンチャな犬でも無いので、そうそう無いとは思うし池自体もそれほど深くは無いのだが、問題は後のシャンプー、なのだ。あの汚い池に落ちたまま放っておいたら毛にコケが生えかねない。そんな犬は飼い主でなくても嫌だ。しかし、犬のシャンプーは大型になればなるほど一苦労なのである。成長して行くサブローと共にシャンプーを手伝ってきた私としては、とにかく水没しない事を祈るしかなかった。
 だが池はともかくとして、暗くなってから見る梅と言うのも悪くなかった。私の今の自宅は小さな一軒家で基本的に生活スペースは二階だけ、庭など無い。植物自体が自室にある小さなサボテンぐらいだ。水をやる必要もまず無い。完全に観賞用だ。
「――……また、梅見てるんですか?」
 突然の声。私が慌てて振り返ると、そこには今の声の主――……真珠が笑顔を浮かべて立っていた。彼は私の隣に座った。
「あの梅は、お兄さんたちが亡くなった後に植えられたんだって――……お父さんが、言ってました」
「……そうだったかな」
 細かい事は憶えていないが、幼い頃には無かった事は判る。
「どうして、桜じゃないんでしょうね」
 真珠はそう呟いて黙り込む。
「桜はきっと、好きじゃないんだ」
「誰がですか?」
「さぁ……誰かが」
 私にも判らない。恐らく誰にも、判らない。この発言に意味など無い。
 私はこの梅が植えられた経緯を知らないし、知ろうと思った事も無かった。庭に木を植えるぐらいならよくある事としか捉えていなかった。あの父が、こういうモノに興味があるとも思えないのも事実だ。
 だが――……私と父以外に、そういう事を決める権限があるとも思えない、か。少なくとも私ではないと思っているが、真偽は判らない。
「直実さんのお友達――……何処の病院に居るんですか?」
「多分、市民病院だろうけど。まぁ暇が出来たら行ってみるよ」
「こんなに身近でこんな事件が起こるなんて――……僕、初めてです」
「……私もだ」
 嘘だ。言い訳はしなかった。真珠も聞いては来なかった。恐らく、私がそういう事に関わっているという事を、彼は知らないだろう。
 私は純粋に、『真珠の兄』で居たいと思っていた。それ以上の何に――……屈指の名探偵にでもなってやろうというつもりも無かった。飽くまで私はただの一般人で居たかった。
 でもそれは、最初から私には許されていなかった。この手が何を引き起こしてしまうのか、自分でも判らずに生きてきた。気付けばあんな事件が起きて、結局自分には何も出来ず――……私は怖くなって、兄の得意としたはずの『光』を封じた。真珠には術は使えない。そこが私とは違った。彼は普通の人間で要られる。ハルと、ただの友人で居られる。

 ――……私はもしかしたら彼の事が、ただ単にうらやましかったのかも知れない。

 隣に座って、静かに梅の方を眺めている彼は、今私がそんな事を考えているとは思いもよらないだろう。
だからこそ――……うらやましい、のだろうか。
 そんな事を考えている内に――……私はふと、十年前の事を思い出していた。


 兄が亡くなってから、一年ほど経った頃だった。父が突然一人の女性と子供を家に連れてきた。子供はまだ三歳にもならない幼児で、ハルに興味を示していたのを何となく憶えている。無論、彼女が義母で子供が真珠だ。父は私に2人を紹介し、その日から二人はこの家の人間になった。
 それから私がこの家に住んでいたのはほんの数ヶ月で、高校に上がってからはずっと東京で暮らしている。
『……まことくん、これはハルって言うんだ』
『はりゅ』
『そう、そんなカンジ』
『こ、これって言うなサネッ! 俺はちゃんと……むぐッ』
 ハルは相変わらずだったと思う。
『仲良くしてあげてね』
 私が柄にも無く笑顔を作ってみると、真珠はそれを読み取ったかのように微妙な表情をして頷いた。その時はただ、あまり嬉しくなかったのかと思っていた。
 今から考えると恐らく、違ったのだろう。真珠がそんなに幼い頃の事を憶えているとも思えないから、今となっては確認する術は無いのだが――……。
 私が真珠に拒否されていたのではなく、私自身が彼に対して拒否するような態度を取っていたのではないかと、何となく思う。時々実家に帰っても、大した話も出来ずにまた東京へ戻る、そんな生活を繰り返してきた。彼が私に馴染めないのも当然ではないか。
 そう思うと、余計に自分が情けなく思えてきた。どうすれば、彼に兄として認めてもらえるのだろう――……いや、自分が受け入れようという気持ちが既に無かったのではないか。今はともかく、十年前の時点では確実に。自分に弟が出来るという事自体を、十年前の私は認められなかった――そこに、間違いは無い。

「……ゴメン」
 私は呟くように謝った。
「? 何の事ですか?」
 隣に座って聞いていた真珠は、不思議そうな顔で私の方を見ていた。
「いや――……昔の事、かな」
「だったら、もう気にしません」
 真珠はにっこりと笑って答えた。続けて話す。
「だってもう、憶えてないですから。謝られても、判んないです。今とは関係無いです」

 それが――……答え、だった。
 私は小さく、ありがとうとだけ、呟いた。


   2

 翌日、私はハルを連れて市民病院に向かった。そこに昇は入院していて、既に意識もあると聞いていた。
 扉を開けるとそこは六人部屋で、昇はその一番窓際のベッドに寝転んでいた。
「よ、昇――……大人数で悪いな」
「ううん、今人少ないから大丈夫だよ。――ゴメンね、せっかく帰ってきてるのに大騒ぎしてさ」
「私は大丈夫。どちらかと言うと……昇に、聞きたい事があるんだ」
「僕に?」
 昇は不思議そうな顔をしていた。
「昇を襲った犯人を見つけたいんだ」
「……そんなの、警察に任せとけば大丈夫だよ。別に僕、死んだ訳じゃないんだし……」
「警察はここに来たのか?」
「一回だけね」
「何を訊かれた?」
「犯人が何処へ逃げたか、とか……普通の質問だったよ」
「『犯人は何処へ逃げた』の?」
 私が改めて尋ねると、昇は少しだけ目を閉じて考えてから、答えた。
「僕が見たのは――……犯人の後姿。階段を下りてって、ケーキ屋さんの方に曲がってった。サネんちの反対側だね。でもそれから先は、知らない」
「男? 女?」
「それは多分、男だと思うけど……でも帽子被ってたし、よく判らなかったよ」
「何か持ってた?」
「え……いや、何にも」
 凶器は、見つかっていないはずだ。
 持っていないと言うのなら、凶器はまだ神社の中に、ある。
 尤もこれだけ時間が経ってしまったから――……既に処分されてしまった可能性はあるが。
「……サネ、こんな事訊いて犯人判るの? 警察も全然判んない顔してたしさ……僕の情報なんてほんの小さな事だし」
「さぁ、それはまだ判らない。小さな情報が事件解決のきっかけになる事だって充分有り得る。それに――……警察と私では決定的に異なる」
「? 何が?」
「『昇の知り合い』」
 昇はきょとんとした顔をしていた。
 私は説明を付随する。
「知り合いだからこそ判る事だってあるだろ……色々とさ。だからその点で警察と私とではベースが違う」
「……ベース」
 昇は不安そうな顔をした。理由は、判らなかった。
 私が一瞬黙った間に、彼は続けて話した。
「――……でも、十年も経ってる。その間に僕も直実君も変わってると思う。その辺は大丈夫なのかな」
 私には答えられなかった。
 変わったのは、私だけではない――……当たり前、だ。いくら今後ろに居るハルが十年前から成長していなくても、私と真珠は少なくとも全く違う。姿かたちも、性格もだ。どの点が、と言われても困るが、でも全く同じではない事は確かだろう。人間、十年も経てば考え方も変わる。
「知り合いだからこそ、話せない事だってあるかも知れない」
 昇は決定的な一言を放った。
 自分の事を知っている人間には――……周囲には、知られたくない事実。世の中にはそんな事も、よくある。
 私は頷いた。
「……判った、ありがとう。でも参考になったよ」
「……直実君、どうしてそんなに調べたいの? 別に、嫌とは言わないけど」
「癖、かな」
「癖?」
「純に頼まれて、そんなような事をやってるから」
 それ以上の事は、言いたくなかった。
 結局自分も――……同じだった。人に事実を話せないでいるのは、紛れも無い、自分自身だ――。
 私は立ち上がって、持ってきた見舞いの菓子だけを昇に渡した。
「店からおやつにと思って持ってきたクッキーだけど、良かったらどうぞ。食事制限とか無いだろ」
「うわ、ありがとう! 直実君のお菓子久し振りだな、ありがたく頂きます」
 昇はようやく笑顔を見せてくれた。
 私は普通に挨拶をして、それからすぐに病室を出た。
 廊下を歩きながら、ハルが愚痴っぽく話してくる。
「何か怪しいぜ。オマエに関わって欲しくないみたいなさ」
「……調べてみないとまだ判らない」
「もう調べてんじゃないのかよ?」
「まだ初期段階だ」
「なーにが『まだ初期段階だ』だッ! いいかサネ、捜査は色んな事を同時進行で、」
「別開口……病院出るまでな」
 術を掛けると、ハルはしばらく声無き声を上げ続けていた。この上なく鬱陶しい。
 そういえば――……昔はこうして、街中で――と言うか家以外の場所で――術を使う事はまず無かった。人に見られるのを酷く恐れていたのを憶えている。だが別に今は気にしない。そんなものを見られたところで普通の人はそれが魔法に近いものだとは思わないし、どちらかと言えばこの場合、ハルの方が目立っているので色が変わる私の右眼に気付く人などまず居まい。――気付いたのが純だったか。

『――……サネお前、眼ェ緑だったっけか? 違うよな?』

 気付かれた時はかなり驚いた。バラすつもりなどなかったから、どうしていいものかと焦ったのを憶えている。
 本来ならば誰にも話してはいけない事だ――……他人経由で、術の事が広まってはいけない。ただの超能力で収まればいいが、術と言うのは――何でも出来る、のである。分子レベルで物の操作が出来るのだ。ただ、使って何が起こるのかは判らないから――骨をいじって空を飛んだりは、出来ない。どちらかと言うと怖くて出来ないと言った方が正しいだろう。
 いつ誰が分けたのかは知らないが、術には光と闇の二種類がある。主に状態を良くする、特に病気や怪我の治療などに用いるのが光の術で、その他一般が闇の術――……それだけの事だ。但し、光の術には失敗も多く、また失敗した時に何が起こるかは想像もつかない。
 だからこそ、兄は命を落とした。私はその様子を傍から見て、兄の強力な術を解こうとして失敗した。――きっとそうだったんだと、思っている。
 術を使える私でも助けられないのだから――……もし私が失敗したら、誰も助けてくれる人など存在しない。だから私は、光の術を使う事を封じた。……失敗を怖がっているだけなのかも知れないとは判っている。実際そうなのだろうと思う。だが、腕を上げるのに必要なのは、魔力などではないはずだ。

 私は病院の玄関を出ても、ハルの術を解く事を忘れていた。
 ハルから背中を思いっきり叩かれて、やっと気付いた。
「悪い、ちょっと考え事をしていたんだ」
「ったく……事件の事か?」
「いや……違う、かな」
「何だよ、真面目に事件の事考えて解決に尽力しろッ! 『探偵』なんだろ!?」
 ハルは私を指差して、私を睨みながら叫んだ。
 意外、だった。
 ハルが私の事をそんな風に思っているとは、思っていなかったからだ。私は何となく微笑ましくなって、思わず笑いながら「はい」と答えた。
 それでもハルが笑い返してくれたりしなかったのは、当然の事だけれど。