こ は る び よ り 探 偵 日 記 ― 第二話 古都の憂鬱




第二章「神と悪魔と人間と」

   1

 ここの縁側に座っていると、いつもあの時の事を思い出す。

 ――……燃え盛る炎、必死に叫ぶ自分、苦しみ悶える三人の声。そして後から現れる――……血縁者。

 目の前のこの平和な庭で、十一年前――……三人もの人間が、命を落とした。
 もし自分の力がもう少し強ければ、もう少し器用に動ければ、きっと彼らを救えたのに――……どうして自分はこれだけの力しか持たないのか。右の掌を意味も無く眺めて、私はため息を吐いた。
「……直実さん?」

 ――子供の声。真珠だ。私は慌てて振り返った。真珠は不思議そうな顔で、私の方を見ていた。
 私は庭を一瞥して、目についたものを種に彼を誘った。
「――梅が綺麗だよ。一緒にここで紅茶でも飲まない?」
「は……はい」
 緑茶の方が雰囲気には合うのだろうが、私はいつでも紅茶党だ。真珠も賛成してくれたので良しとする。
 私は立ち上がって、台所へと向かう。
「じゃ、座ってて。淹れて来るから」
「え――……いいです、僕が」
「私はこれでもプロだよ。茶葉も持って来てるから」
 世間では用意周到と呼ばれる。
「え」
 さすがに絶句したようだ。私は苦笑して代替案を述べた。
「サブローと遊んでて」
「あ……はい」
 真珠は笑ってくれた。
 ちなみにサブローはこの家の犬だ。中学の頃に駅に棄てられていたのを拾ってきたので、種類はよく判らない。というか雑種で、それほど大きくは無い中型犬である。毛色は全身茶だ。犬猿の仲と言う通りというか、ハルはどうもサブローを好かないらしい。全く、性格まで猿になったのか何なのか、よく判らない吸血鬼だ。
 私は自分の部屋の鞄から茶葉の入った缶を持ち出し、台所へ向かって湯を沸かし、2人分の紅茶を淹れて縁側に戻った。そこではまた、真珠が律儀にサブローとじゃれ合いながら待っていた。
「お待たせ」
「あ――……りがとう、ございます」
 私は真珠に片方のカップを渡した。
「『ございます』は要らないよ」
「……でも」
「血が繋がってようが繋がっていまいが、私は真珠の兄だ。私は兄さんに対して敬語で話した事なんて無いよ」
「――もしそのお兄さんが死んでいなければ、僕は直実さんの弟になる事も無かったんです」
「!」
 そんな事を言われるとは思っていなかった。私が言葉を失っている間に――……真珠は更に話を続けた。
「直実さんのお母さんが亡くなったから、だから僕の母さんはお父さんと結婚したんでしょう? もし……その事故が起こらなければ、僕は母と二人で暮らしていたんだと思います」
「……だからって、私と真珠の関係とは……関係ない話だ。今こうしている限り、兄弟には違いない」
「でもお兄さんが死ななければ良かったって思うでしょ? そしたら……そしたらお父さんだって、直実さんにあんなに辛く当たったりしないのに」
「それはどうだか判らないよ。あの人と私は元から仲が悪い。それに拍車を掛けただけの事で、何がどうなるって訳でもない」
「でも拍車は掛けた。――……僕は母さんの子で、お父さんの子じゃない。それなのにお父さんは僕ばっかり気にして直実さんを追い出して」
「実の子に遠慮が無いだけだよ。本当に追い出したいなら絶縁してる。遺言状でも書いてるよ、直実に遺産は渡さないとでもね」
「……でも」
 真珠は黙り込んだ。
「真珠は私が嫌いか?」
「えッ、嫌いだなんてそんなッ」
 慌てたように真珠は首を横に、千切れそうなほどに振りまくった。そう、嫌われている訳ではない。だが――……何かを、躊躇われている。
 遠慮――しているのか?
 私は今まで一度も真珠に、兄と呼ばれた事が無い。
「紅茶……冷めるよ、真珠」
「あ……はい、いただきます」
 真珠はようやくカップに口をつけた。息が零れる。
「……美味しい」
「それは良かった、ありがとう。店で出してる物と同じなんだ」
「え、そうなんですか?」
「持ってくるのは安いお茶でも良かったんだけどね。面倒だったから手に付くところから持ってきた」
 笑いながら答えると、真珠は先刻の話を忘れたようにまた、笑ってくれた。
 まだ――……敬語のまま。
 クセ、ではないだろう。彼は彼の母にも父にも、敬語は使わない。私が父に敬語を使うのは、単に他人扱いしたいだけだ。敬意を表しているという意味では、余り無い。
 別に敬語で話される事が嫌だとは言わないが、兄弟のうちで他人のような話し方をするのは何となく頂けなかった。いくら自分には手の届かない存在だった兄でも、なんでもない雑談をする時は――……仲の良い、普通の兄弟で居たかったと思うように。
 私は口実の紅梅を眺めて、紅茶を飲みながら静かにため息を吐く。決して嫌な意味ではない。
「直実さん」
「ん」
「東京は――……東京には、梅の花はありますか?」
 どういう意味だろう。どう考えたって、梅ぐらいは何処の街にもある。それぐらいは真珠だって判っているのだろうに。第一、受験時に今私が住んでいる街には訪れたのだから知らないはずはない。そんな事に興味が無かったのなら、話は別なのだろうが。
「それは、勿論……でもまたどうして?」
 私がほとんど無意識で訊き返すと、真珠は静かに微笑んで、「何でもないです」と締めた。結局質問の意図は、判らなかった。
 そうして和んでいた、その時だった。
「おいッ!!誰か、きゅ、救急車だッ!!」
 誰の叫び声が、聞こえた。私は立ち上がって、庭から家の周りを回って玄関の門に出る。そこから道路へと出ると、晃介の家の神社の辺りに、妙なほどに人だかりが出来ていた。
「直実さん」
 真珠がついてきている。
「あぁ……お義母さんに、昼食までには戻ると言っておいてくれ」
「え、でも」
「もし戻れなかったら、ペナルティでおやつを提供するよ」
 苦笑しながら私が言うと、真珠はニッコリと笑って「判りました」と言い、家の中に戻っていった。
 さて――……とりあえず、友人の家が大混乱だ。行ってみる事にする。
 階段を上っていくと、鳥居周辺には人だかり――とは言っても近所の知り合いばかりだった――が出来ていて、中から聞き覚えのある人間の声がした。
「あの、何があったんですか?」
 人だかりの一番外側に居た人に尋ねてみた。
「あぁ……若いのが倒れてんだよ。頭から血流して……そうだあんちゃん、救急車呼んでくれないかッ」
「は……はい」
 さっきあれだけ大声で叫んでいたのに誰も呼んでいなかったのか。とりあえず、私はポケットに入れてあった携帯電話から一一九番を押した。倒れている本人は見えなかったので、聞いた限りの情報だけを伝えた。
 それからしばらく待って、救急車が到着して……運ばれていく青年を見て、驚いた。
「……昇…………?」
 どうして、彼が。
 一体何に巻き込まれて、こんな事に――……?

 私には全く想像もつかず、ただひたすら彼の無事を――祈るばかりだった。

   2

 家に帰り着いたのはそれからすぐ後だ。私は知り合いだと名乗らず――どちらかと言うと名乗る隙を与えられなかった――救急車には乗らなかったので、他の野次馬と同じように帰ってくる事しか出来なかった。
「直実さん……何があったんですか?」
 真珠が後ろにサブローを従えながら、心配そうな顔で尋ねてくる。
「いや……真珠が心配する事じゃないよ。大丈夫、ちょっとした事故だ」
「事故、ですか……」
 事件と言ったら尚更心配するだろう。第一、私はどうして昇が血を流して倒れていたのかすら知らないのだから――決して嘘をついた訳ではない。一応、事故であってほしいと信じている。
「サネ、血の匂いがするぜ……? 流血騒ぎかよ」
 真珠の背後から赤毛のハルが現れた。居るとは思っていなかった。とんでもない嗅覚だ。
「……ハル居たのか。まだ詳しい事は判らないよ。でもまぁ、あそこだったら階段から落ちたとしても血は出るだろ」
「出るだろ、ってなぁ。詳しい事判んねェのかよ」
「悪かったな。私も野次馬の1人になっただけだ。わざわざお前に報告するほどのモノは見てない」
「……そ」
 見つかりそうだった昼飯を食べ損ねた吸血鬼はなかなか怖い。ハルは確実に昇の血を狙っていただろう。全く、本当に油断も隙もならない。
「……でもよ」
 まだ何かあるのか。私が振り返ると、ハルは妙に真剣な顔をして小さな声で言った。
「あそこはオマエの知り合いンちだろ。――オマエ、階段上っていったよな?」
 見ていたらしい。私はため息をついた。
「とりあえず中に入ろう。話は……昼食の後だ」
「ちぇッ」
 その後私たちが食堂に辿り着くまで、ハルの嘆息が聞こえるのみで真珠は一言も発さなかった。何か――考えている事でもあるのだろうか。
 それから普通に昼食を食べて、私は部屋で少し休んでからまた外に出ようとした。だがそう上手く行くはずも無く――玄関に立った私の背後には、不気味なほどに笑顔を湛えた子供が2人、くっついてきていた。
「サネ……抜け駆けは許さないぞ?」
「僕もついて行きますっ」
「…………。何があっても知らないぞ」
「うっしゃぁ」
「はいっ」
 ……本当に知らないぞ、全く。

   *

 階段を上ってもそこに先ほどの人垣は無く、神社は一応、いつもの静けさを取り戻していた。奥の建物の方を見ると、どうやら警官が来ているらしく、人が数人話しているのが見える。その中に晃介が居るかどうか、遠くから眺めて確かめた。――居る。間違いない。数人の輪の一番外で、退屈そうな顔をして箒をもてあそんでいる黒髪の男が晃介だ。私は彼の方へ近づいていった。警察に気付かれても――……晃介の友人だと言い張れば何とかなるだろう。退屈そうにしているのだから晃介は当事者ではないようだし、恐らく離れても問題は無いだろう。
「――晃介」
 なるべく小さな声で、私は彼に呼びかける。彼もすぐに気付いたようで、警官たちに声を掛けてすぐにこちらへ寄って来た。即許可が下りたのだろう。
「おぅ、悪ィな。こんな状況でさ」
「何があったんだ?私も……よく判らなかったけど」
「あぁ……俺もよくは判んねェんだけどさ。中に居たら昇の叫び声が聞こえて、慌てて外に出てみたら……誰かが走って階段下りてったんだよな。多分、あいつを殴った犯人だと思うけど……追いかけたけど追いつけなくて、ケーキ屋の方に走ってったのは判ったんだが……。それで、戻ったら昇も起きててさ……人も集まってきて、救急車呼ぼうと思ってたら昇も意識失っちゃってさ」
「誰かに殴られたのか……」
 初耳だった。やはり――事故ではなく、事件だったという事だ。私は小さくため息を吐いた。
「……それで、叫んだのは晃介だよな?」
「あぁ……でもなかなか来ないからイライラしたよ」
「呼んだのは私だけど……まさか昇が倒れてるとは思わなかったんだ」
「俺もだよ、吃驚した。――……後ろのはあれか、助手?」
「……うーん、背後霊?」
「霊とはなんだ、サネッ!! 俺はれっきとした……もがッ」
 公衆の面前で吸血鬼などと口走らせる訳には行かない。ハルのうめき声が聞こえるが無視する事にする。
「黙れ猿。――真珠の事は言ってないからな、気にしなくていいぞ」
「はい」
 晃介も、真珠も笑っている。無論、真珠はハルがヴァンパイアである事も知っているし、それを公に出来ない事も理解している。そんな大馬鹿者ではない。
「相変わらずだなッ、ハル……昔からそんな感じで」
「成長しないんだよ」
「ぷはッ、そりゃねェよサネ、俺だって日々成長してこのサイズにまでなったんだぜ!?」
「……身体の事じゃない」
「……あ?」
 これ以上の質問は禁止だ。
「昇……大丈夫かな」
 晃介が小さく呟く。
「起き上がれるくらいなら多分大丈夫だろ。晃介の話聞く限りは、殴られてからそう時間も経ってないし……少し気を失っただけだったらすぐに目も覚ますさ」
 私が答えると、晃介はにゃははと笑って「そうだよな」と呟いた。妙に――……不安げにも、見えた。
 やはり私とは違うのか――……何か、奇妙しい。確かに友人が事件に遭ったのだから不安なのは判るが、だがそれとは異なる意味で――……違和感を覚えた。
「警察、まだ居るのか……長いな」
 私は全く関係の無い話題を切り出す。
「色々あんだよ、警察にもさ。俺もそろそろ戻った方がいいかねぇ……そんじゃサネ、またな。せっかく帰ってきてんのにこんなんでゴメンな」
「晃介が謝る事じゃないよ」
「ははッ、関係無ェって。じゃな!」
「あぁ……またな」
 箒を持ったまま、晃介はバタバタと走っていった。どうして常に箒を持っているのか、私にはよく判らない。晃介は掃除マニアだったか?いや、そんなはずは無いだろう。持っていないと不安なのか――……いやそれではただの変人だ。
 下らない事を考えながら、私は後ろの2人に戻るように言った。その後に自分も続く。
 何かがやはり、奇妙しい。それ以上の思考は進まないものの――……違和感だけが不安に響く。階段を下りて、何となく左右を見回した。この神社の斜め45度向かって右側に、昔私がよく世話になった喫茶店がある。
(……マスター)
 元気にしているだろうか――……初めて会ったのはもう十年以上も前、兄に連れられて入ったのが最初である。そこのマスターに影響されてこの道に進んだ身としては、帰郷している今の内に会っておいた方がいいだろう、と関係の無い考えが頭に浮かぶ。今はそんな場合ではない。
「……直実さん」
 真珠が話し掛けてくる。私が顔を向けると、彼は静かに切り出した。
「やっぱり……事件になっちゃいましたね」
「……仕方ないよ」
「直実さんは、何か手伝うんですか?」
「手伝う?……誰を?」
「警察とか……」
 今回の事は、誰からも依頼されていない。普段は飽くまで警察からの依頼があって動くまでだ。民間人に捜査権限は無い。尤も、依頼人は純だけで、他の人間から依頼された事など一度も無いのだが――。
 しかし、友人が事件に巻き込まれたのも事実だ。そういう事とは関係なく、何とかしたいと思うのも事実。
 自分に、出来る事なら。
「……出来ればね」
「僕も手伝っていいですか? ……難しい事は判りませんけど、でも……今度からお世話になるんだし、それに」
「ダメ、と言ったら?」
「……う」
 子供らしい。思わず笑った。
「構わないけど、交通費は自分持ちな」
「! ホントですか?」
「あぁ……でも、途中で逃げるなよ」
「逃げる……? はいッ、大丈夫です」
 何も知らない子供のうちに、こういう事に関わらせていいものかと、何となく思う。
 でも――……せっかく彼から私に望んでくれているのだ。
 少しは本当の兄弟らしくなりたいと私自身が望んでいるのなら――……断る、理由は無い。

 門扉を閉めながら、やはり私はハルの言っていた通り――……結局人を疑っていたままだと、思った。
 今日はケーキを作ろうかとも思っていたのだが、そんな気力は残っていなかった。