こ は る び よ り 探 偵 日 記 ― 第一話 黒板の裏側




第三章「硝子の向こう側」

   1

 連れて行かれた先は、家庭科準備室。普段、家庭科の先生とか助手さんとかが居る場所。どうやらこの刑事さん、この部屋を簡易事情聴取部屋にしているらしい。あたしの前には、茶髪の刑事さん――純って呼ばれてた、かな?それと、直実さん。しかしどうして彼が?もしかして、実は警察関係者とかですかね?でも刑事さんが自分のお店持ってる訳が無い。そんな暇あったら仕事しろよって話になるし。
 話を訊かれる前に勝手に色んな事を考えていたあたしは、今の状況を半分忘れかけていた。
「とりあえず先生には話をつけて――……午後の授業を公欠にしてもらうって事になったから、安心して」
 茶髪の刑事さんが言う。あたしは頷く。やった、授業サボれる! って……これは、あんまり、嬉しくない。だって、警察に事情聴取されるんだよ? 自分は関係無いとは言え……ただの第一発見者とは言え。
「あ、あの――……直実さん、どうしてここに?」
 気になりすぎる。この刑事さんとも仲が良さそうだし、知り合いって事は確か、のはず。
 直実さんは頭をかきながら少し考えて、ゆっくりと答えた。
「――警察の仲間だから、かな」
「仲間? でも警察じゃなくて?」
 直実さんが答えに詰まる。変なの……と思っていたら、刑事さんの方が答えてくれた。
「そ、こいつはただの『協力者』。刑事でもなければ警察官ですらない。でもこうやって事情聴取に立ち会う程度のことはさせてもらえるくらい、警察に信用されてる人間です。ほら、よく居る『名探偵』みたいな扱いされてるんですよ。本当は駄目なんですけどね、内緒にしといてください。あ、それと――俺、『刑事さん』とかって呼ばれるの苦手なんで、名前で呼んで下さい。茨木と言います」
「イバラキ、さん?」
「えぇ、『ギ』じゃないです」
 茨城県……今でもイバラギって言ってる人多いけど。
「判りました」
「ありがとうございます。それじゃあ――……本題にでも、入らせてもらいましょうかね」
 刑事さ――茨木さんの目つきが、何となく変わったような、気がした。仕事と私事を混同しないタイプってところ? そういえば、あの子供との会話を聞いていた限り、直実さんも似たようなところあるけど――。
 ん、この2人の関係は何なんだろう? 刑事と探偵って、仲が良かったり悪かったりしてるイメージはあるけど。それだけの関係とは、思えない。ただの仕事上の関係だったら、ファーストネームで呼んだりしないだろうし。まぁ飽くまでもあたしの想像だけど。
「とりあえず、お名前をどうぞ」
 あたしだってそれぐらいは答えられる。
「泉谷、楓です」
「楓さんね」
 刑事さんが手帳にメモしている。この場合、ファーストネームで呼ぶ必要は無い気がする。
「ではまず――……発見した時刻は覚えていらっしゃいますか?」
 急に言葉が丁寧になった。
 質問に答えよう。
「――自転車置き場に着いたのが、八時五分前……それから靴を履き替えて、一旦教室に上がって……それから下りて来て、特別棟に移って……渡り廊下から家庭科室はすぐです。細かい事は判らないですけど……多分、8時過ぎぐらいだったと思います」
「友達にひとり会ってるだろう?」
「あ、はい、美佐……加賀見さんです」
 今の質問は刑事さんじゃなくて、直実さんの方だった。何だかお店にいる時よりも口調が厳しい。お店で会った時は、何となく柔らかい感じがしたんだけど、今度はその正反対。うーん、尚更不思議な感じ。
「彼女と立ち話したとか、そういう事は無いな?」
「はい――……話はしましたけど、歩きながらでした。早めに来いって言われてたので」
「運悪く一番乗りになってしまったという訳ですね」
 刑事さん、フォローしたつもりらしい。でも『運悪く』とか言われて、余計に気分が沈んだ。
 まだあたし、全然実感が湧かないんだけど――。
「……八時過ぎ、か。他に何か見たものは無いですね? ここに来る途中で、とか」
「何にも……いつも通りでした」
「うーん、やっぱそうだよな。うん、じゃあとりあえず……連絡先だけ教えて下さい」
 笑顔で刑事さんが言う。あたしは差し出されたメモ帳に家と携帯の電話番号を書いて、渡した。
「はい、ご協力ありがとうございました。また何かあったらご連絡するかも知れませんが、その時はよろしくお願いします」
「……はい」
 そして、あたしは椅子から立ち上がる。それから部屋を出ようと、ドアに手を掛けた時だった。
「明後日また、店の方に来てくれないか? ――あぁ、出来ればで構わないけど」
 直実さんの声だ。あたしは振り返って、彼の顔を見る。さっきまでの硬い表情とは違って、幾分か柔らかかったけど――……何かが、違うように思えた。
 ま、気のせいって事にしとくかな。
「……判りました。その代わり、紅茶一杯くらい奢って下さいね」
「あぁ……そうだな、それぐらいは出させてもらうよ」
 その返答を聞いてから、あたしはニッコリと笑顔を作り、2人に向かって会釈をして――……部屋から出た。
 出たところで、さっきの子供があたしを待っていた。
「ご苦労さん、しげるさんッ」
「だから違うの! あたしは楓、かーえーで。覚えた?」
「うーん……全然違うなぁ。サネ、人の名前覚えんの遅いから、俺がずっとしげるさんって呼んでればそう覚えるかと思ったんだけど」
 こいつめ、かなりあくどい子供だな。
「あんたねぇ……人の名前でもてあそんで、」
「あ、そーだ、楓さん? 事件の話、全然聞いてないっしょ」
 素直なのはいいけど、そういう事をしらっとした顔で言うなっつーの。大体そんな話、こんな子供から聞きたくなんか無い。
 どうやらこの子供――そういえば、ハルって呼ばれてたっけ?――、あたしがそう思って明らかにムッとした顔になったのが判ったらしい。
「知りたくないなら、別に俺だって話さないけど。でもサネがわざわざ店閉めてまで捜査に来てるんだぜ? 普通の事件だなんて思わないだろ」
「……直実さんがどれだけの名探偵なのかは知らないけどさ……あたしは探偵でも何でもなくて、ただの学生なの。事件の話聞いたところで何にも判んないし、役にも立たないの。それじゃね、えっと、ハル君って言ったっけ? あたし授業戻らなきゃ」
「あ、おい!! まだ話が残って――……ッ」
 聞いてやるもんか。あんたの話なんて――……聞きたくも、ない。
 妙にあたしは怒っていた。
 誰に対してだろう――……ハル君か、それとも直実さんか。

 答えは全て闇の中。
 あたしにも判らない、あたしの心の中なんて――……誰にも、判るはずがない。

 あたしは教室までひたすら走った。結局一度も、止まらなかった。早くあの部屋から離れたい、一心だった。

   *

 その日の授業は勿論面白くなんてなくて、いつも以上に頭には入らなかった。これじゃー学年末が心配だよ……全く、誰がやったのか知らないけど、今度の事件の所為だぞ。
 大体、そんな事件があったんなら授業なんてさっさと止めて解散すればいいのに。どうしてこう、隠したがるって言うか何て言うか。まぁ、あんまり騒いで大変な事になってくれても困るけどさ――。

 家に帰って食事をしてから、あたしはすぐに布団に潜り込んだ。今日あった事は、家族になんて絶対話したくない。そんな事話したって――……何の解決にも、ならないんだから。兄さんは興味なさげに「へぇ」とか言って、「珍しい経験できたじゃん」とか、妙な事を言ってくるんだろう。母さんも似たような反応だ。間違いない……え、何? パクリ? ま、見逃して。

 明後日、日曜日――……また、あの店に、行く?
 冗談じゃない、って思った。でも――直実さんに、行くって言っちゃったしなぁ……気は乗らないけど、せめて行くだけ行ってみよう。ゴメンなさい、事件の話はどうも性に合わなくて。紅茶だけ貰って帰ればいいし、今後は普通の客として行けばいい。あの鬱陶しい子供だって、店ならあの小猿になってるんだし。え? 合ってるよね、あの小猿があの子供なんだよね。声一緒だし。間違ってたら切ない。

 ひとりでそんな事を考えながら、あたしはすぐに眠りについた。

   2

 そして次に目が覚めた時には、既に日は高く上った、午前十時になっていた。あたしはゆっくりと身体を起こし、目を擦りながら部屋を出る。軽く朝食を取って、着替えて――……はて、何をしようと考える。
 あの店に行くんだ、そうそう、忘れちゃいけない。
 あたしは財布だけ鞄に突っ込んで、それを持ってまた、部屋を出た。

 自宅から駅に向かって歩いて約五十メートル。そこで右に曲がった、駅に向かう道の途中にその店はある。綺麗な看板には、印刷された毛筆の書体で「小春茶屋」と書かれていて、一見和風な雰囲気を漂わせている店だ。でも実際には紅茶とケーキの、カフェ。そこの何となく怪しい店主が直実さんで、かなり怪しい小猿が、ハル君……って、もう紹介しなくてもいいよね。
 あたしは店の前で何度か深呼吸した。前回と違って――……何となく、ドアを引くのが怖かった。どうしてかは、判らないけど。

 ――そしてその運命の扉を、開けた。

「いらっしゃいませ――……ああ、ようやくいらした」
 カウンターに座って紅茶を飲んでいた和服姿の直実さんが言った。あたしは何となく反論したくて、答えた。
「……これでも起きてすぐ来たんです」
「いや、責めてるわけじゃないですよ。とりあえず、好きな席にどうぞ。紅茶淹れますから」
「はい」
 店用の台詞の時は敬語、それ以外は敬語なし、ってところか。使い分けが上手いのか、なんなのかよく判らないけど……統一して下さい。
 あたしは前回とは違う、店内向かって左側、カウンターの隣の机の、一番左……窓際の席を取った。入り口左にあるカウンターからはすぐ傍だ。話がしたいんだろうから、これぐらいの席の方がいいはず、とあたしは直実さんの方を覗き見た。
 でも当然、彼は慣れた手付きで紅茶を淹れているのみ。何だか、ポットの揺らし方なんかも板についてる感じがする。
「はい。砂糖とかレモンとかミルク要ります?」
「いえ、ストレートで頂きます、ありがとうございます」
「いえいえ」
 そして彼はカウンターに戻っていく。
 あたしは何となく、尋ねた。事件の話とは、全然関係なかった。
「――……このお店、いつ開いたんですか? あたし、全然知らなくて」
「ここは二年前です」
「それじゃ、おいくつなんですか? 随分若く見えますけど」
「……二十五です」
 直実さんは苦笑しながらも答えてくれた。まぁまだまだ、恥ずかしくない歳だからかも知れない。
 しかしよくよく考えてみると、あたし、質問内容飛びすぎだ。あたしが黙り込んだ所為で、その場が急に静かになった。
「――……あの高校の生徒さんだったとは、知りませんでした」
 直実さんが静かな口調で言う。
「知ってたら怖いですよ、それ」
 あたしが冗談交じりに答えると、直実さんはそれを受けて笑ってくれた。うん、冗談の通じる人だ。
「今度――そこの中学を、ウチの弟が受けるつもりらしいんです。だから少しだけ、調べてはいたんです」
「弟さんがいらっしゃるんですね」
「……義理の、ですけどね。もし受かったら、ここで預かる事になりそうですけど」
 そして苦笑。
「にぎやかになりますね」
「だったらいいんですけどね」
 じゃあ、ならないんですかい? お兄さん。でもあたしにそこまでは、訊けなかった。その代わりに、何となく――思った事があった。
「そろそろ願書受付の頃ですよね……こんな事件があって平気なのかな、中学」
「さぁ、それは中学校に訊いてみないと判りません。少なくとも弟は、それでも受けると言ってましたけど」
「そうなんですか。じゃあ、あたしが先輩になったら、宜しく言っておいて下さい」
「えぇ、言っておきます」
 で、会話が終わる。またその場が、静かになった。
 そういえば、あの小猿は居ないの? あれが居れば、多少は楽なんだけど――……でも、気配すら感じない。前回感じた、あの『術』とやらの威圧感も無い。あの小猿、出掛けてるんだろうか、こんな時に。
「――泉谷さん」
「あ、あの……楓でいいです。名字で呼ばれると、またハル君がしげるしげる言い出すから」
「……そうですね。じゃあ、楓さん」
「はい」
「事件のことで、少し思う事があった」
 口調が変わった。
「何ですか?」
 あたしは敢えて普通に応答する。こんな事でいちいち反応してたら始まらないんだから。
「……驚かないな」
「何がです?」
「いや――……普通の人は大体、人が変わったみたいだと言って驚くんだ。友人たちは敬語を使う私を、お客様は敬語を使わない私を。どちらも全く同じ人間で、決して人格がふたつある訳でもなく――その使い分けぐらい、普通の人だってやっている事のはずだろ。でも何故か私の場合は――、印象がまるで違うらしい」
 言い訳みたいにそう言って、彼は紅茶を飲む。
 まぁそれは、確かに言えてるかも知れない。自分がそう言われたら、不思議に思うのも仕方ない。
「でも確かに……ただ敬語を取っただけ、っていう感じじゃないですよね」
「……そう、か?」
 うーん、でも「そうですか?」から「です」取っただけか。やっぱり変だ、不思議な人だ。
「た、多分」
「私は何も変えているつもりは無いんだけどな――……人って不思議だ」
「……そうですね」
 要するに、結局みんな不思議って事ね。
「で、思う事って言うのは?」
 このまま行くと本題忘れそうだったから、あたしは直実さんに問い掛けた。彼は「あぁ」と言って、答えてくれた。
「忘れかけてた。――そう、思う事――……どうして学校で殺したのか、って事だ」
 それは、どういう意味でだろう? あたしの方が判らない。あたしが首を傾げていると、直実さんは話を続けた。
「学校には入り口という門がある。そこには見張りとも言える守衛が居て、時にはカメラなんかが仕掛けられている場合だってある。……仕掛けられているという表現は奇妙しいかも知れないけど。とにかく、学校……特に私立校と言うのは何でも揃って良さそうに見えて実は捕まりやすい場所だと思う」
 あぁ、なるほどね。確かに学校によっちゃ、警備はものすごいもんね。ウチの学校だって、凄まじいとまでは言わないけど、それなりの警備システムが働いてたはず。あたしは頷いた。
「それでも敢えて自宅を選ばずに学校、つまり職場を選んだ。その時点で、犯人はその方が都合のいい人間、自宅は遠く、職場でしか会わない相手となる」
「それじゃあ、家庭科の――」
「まだ家庭科とは限らないな。もしかしたら、他の科目の先生かも知れないし、生徒かも知れない。そこまで細かい事まではまだ判らないけど、とにかく学校関係者の中に犯人が居るって事は確かだろう。外部犯の可能性は九十九パーセント以上の確率で無いな。入るにしても、行く場所が特殊すぎる」
 そりゃそうだ。特別棟、それも家庭科室なんて行っても何の意味も無い。強盗しに行くなら、校長室とか、職員室、事務室辺りが筋かな?
「――……ああ、そういえば楓さんが第一発見者なのを忘れてました。こんな話して大丈夫ですか?」
 何を今更と思ったけど、嫌な感じはしなかった。
「え――……あたしが見たのは、一瞬ですから。それに、あたし一応生徒なんですし、関係者でもありますから、何か情報が提供できれば、しますよ」
 自信満々にそう言って見せると、直実さんは久し振りに嬉しそうに笑ってくれた。
「そうか――ありがとう。協力者を探していたんだ」
「じゃ、適度に協力させてもらいます。あんまり踏み込んだ事は出来ないですけど」
「あぁ、それで構わない。店もあるから――……私はそうそう実地調査に行けないから」
「じゃ、あたしは実働部隊ですか?」
「そうなってもらえるのか?」
「あたしで良ければ、やりますよ。難しい事は出来ないかも知れませんけど」
 あたしがそう答えると、直実さんは優しく笑って、「それで充分」と答えた。何となく、ため息が零れた。でも飽くまでも、嫌な意味のため息なんかじゃない。その点、お間違えのないよう。
「それで――……あたし、事件のこと、よく判ってないんです。昨日も帰りにハル君に言われて、別にいいって言って帰ってきちゃったので」
「うーん……でもそれほど特殊な事があった訳じゃない。ただ単に、学校の中、家庭科室……はちょっと特殊かな、そこで事件が起こったっていうだけの話」
「先生は……どうやって、殺されたんですか?」
「包丁で正面から胸を刺したらしい。あそこは家庭科、しかも調理室だ。凶器は正直、ため息でも吐きたくなるくらい沢山あった」
「……それはそうですよね」
 包丁を人をも殺せる凶器と考えると、家庭科室は相当怖い場所になる。
 ……そんなときに、あたしの頭の中で全然関係の無い疑問が浮かんできた。
「あの――……あの刑事さんと、直実さんの関係って……? お友達ですか?」
 直実さんはきょとんとした顔になって、それから少し考えるような仕草を見せる。上手く説明出来ないような、微妙な関係なんだろうか……おいおい、どんな関係やねんって。
 十秒近く考えてから、直実さんが答えた。
「あれは元は幼なじみで――……、一時期は敵にもなった。でもまぁ今は、あっちの仕事の依頼人ってところかな。友達と言えば友達か」
 結局は、幼なじみで仕事仲間って事ですか。ちょっと気になる一文もあるけど、ここは敢えて訊き返さない。こんな事訊いて、悪く思われたくも無いし。
「へぇ……あたしにはそういう人居ないから、幼なじみってうらやましいです」
「そんなに良いものじゃないよ。私の場合は男同士ってのも重なって、色々あったし」
 まぁ、男女だからどうなるって訳でも無いんだろうけど――多少は違うんだろうね、感覚が。あたしは軽く頷く。
 それからまた、疑問が浮かぶ。これを訊かない訳にはいかない――……何となく、そう思った。


「――術って、何ですか?」

 直実さんの表情が微妙に変わった気がした。驚いたような顔をして、それから少し、切なげな顔になって。静かな口調で、話し始めた。
「術は術、そのままの意味ですよ。ハルを小猿にしたり、黙らせたり、壁に貼り付けといたり……色々と」

 ………………それ、虐めじゃないっスかお兄さん。

 あたしが焦った顔をしていたのに気付いたんだろうか、直実さんは苦笑した。
「あいつはあぁ見えてかなりの問題児だから、それぐらいやらないと治らないんだよ」
「はぁ……」
 まぁ、そんなモンか。

 おっと?
 話を逸らされた気がするぞ。

 あたしは訊き返そうとして、ふと考え直す。
 話を逸らしたからには――……直実さんにもそれなりの考えがあった訳で。
 一般市民のあたしには触れられたくない話題なのかも知れないし。
 まだ三回しか会って話した事のない、ただの『知り合い』なんだし。

 今日は、この辺で――……終わりにしておこう。
「えっと、それじゃ――……紅茶、ごちそうさまでした。えっと、お金は」
「いや、今日は私が出すって言ったんだから――要らないよ。あ、それから」
「? 何ですか?」
「出来れば、でいいんだけど――……亡くなった先生の周りにいた人、まぁだから他の家庭科の先生方とか。その人たちに、これを訊いて来てくれないか?」
 そう言って、直実さんが一枚のメモをあたしに差し出す。あたしはそれを受け取って、そこに書いてある内容を眺める。一見、ものすごく一般的な質問のように見えた。
「……判りました」
「それと、守衛さんにもこれを。どちらかと言うとこっちを優先的に」
「はい」
 もう一枚の紙に書いてあったのは、似たような質問。あたしがそれを確認して、もう一度顔を上げると――……、直実さんは急に表情を変えた。今まではずっと穏やかな感じだったんだけど、何故か、冷たい印象を覚えるようになった。
 そして、周りには誰も居ないと言うのに――耳打ちで、言った。


「――術の事は、誰にも言わないように。特に私の事を知らない人間には、絶対だ」


 何だか判らないけど、不意に恐怖を感じたような気になった。
 別に、言われたことは何ら怖くなんて無いのに。
 強烈な寒気が、あたしを襲った。

 慌てて直実さんの顔を見たら――……、色味の無い灰色だったはずの彼の右の瞳が、碧色に見えた。
 何だろう、光の加減?

 あたしは言葉を失って、とりあえず必死に頷いておいた。
 うーむ、やっぱり変な人だ――……どうも、信用ならない。

 あたしがそう思っていたのを見抜いたのかなんなのか、彼はまた穏やかに微笑む。
「調査の方、宜しくお願いします。少しでも回答が得られれば、何らかの答えは出るでしょうから」
 いきなり敬語モードに戻るか、この人は――……。
 あたしはもう一回頷いて、それから思いっきり腰を曲げて会釈して、店から飛び出した。

   *

「あーあ、あの子にも振られたか?サネぇ」

 カウンターの影からひょっこりと顔を出した小猿が楽しそうに言う。

「……うるさい。別に、愛の告白なんかをした訳でもない」

「でも期待はしてたんだろ?」

「…………何処が」

「今の間は何だよー」

 きゃっきゃっ言いながら笑う様はまさしく猿だ。

 直実がため息を吐き、カウンターに戻る。

 それからまた、紅茶を淹れる準備を始めた。

「サネ、今日何杯目だ? 飲みすぎじゃねェの?」

「ハルに心配される事じゃない」

「眠れなくなっても知らねーぞッ! 明日の仕込みは誰がやるのかなッ?」

「寝る頃にはカフェインの効果なんて切れてるさ。それにもしまだ効いてたとしても――」

「しても?」

 直実がハルの目の前で指を鳴らした。

「ぐああッ、何しやがるッ」

 ハルの動きがぴたりと止んだ。



「――……自分で術を掛けてでも寝るさ」



 少し切なげな声に、動けなくなっているハルが静かに応答する。

「……ったく、世話の焼けるヤツだなッ」

「誰がだ」

「もがッ」





 数十秒後、窒息死寸前のハルの叫び声が、冬の住宅街に響き渡った。