こ は る び よ り 探 偵 日 記 ― 第一話 黒板の裏側




第二章「失望の彼方で」

   1

 あの店に出会ってから、既に二週間。三学期が始まって、あたしはまた退屈な日々を送っていた。何かこう、面白い事とか無いのかな……って、そんな事考えても無駄か。この平和すぎる学校で、何かが起こるなんて事もないだろうし。なんか、ため息が零れる。授業を受けていても、今日は特に興味がある話もなくて、ただただ退屈な時間が過ぎていくだけ。受験はしないで内部進学するつもりだから、受験勉強とかもしないし。
 教卓に立って栄養について語ってる先生の顔を見る。五十過ぎのおばちゃんで、軽くパーマの掛かったショートの髪はところどころ白髪が見える。せっかちな上に厳しくて、生徒たちにはあまり人気が無い。ちなみに名前が松井だからって事で、裏では皆ゴジラってあだ名付けてる。まぁあの東京を壊滅させる怪獣ほど怖い顔してる訳じゃないけどさ。そんな人の授業だから、下手に寝てるとその学期の成績がどうなるか、判ったもんじゃない。
 あたしは板書をノートに写しながら、また色々なことを考え始める。
 来週の授業は調理実習――……特に嬉しくも嫌でもないけど、あの先生相手なのは少し頂けない。ここはひとつ、気分転換に別の先生に教えてもらって――……無理な話。またため息。
「泉谷さん? 聞いてるの? ここ大事なところなんですからねッ、ちゃんと聞いときなさいよ」
「あ……はい」
 しまった、ボケッとしてた。
「全くもう、みんな正月ボケしてるのかしらねッ、前のクラスでも半分以上寝てたわー」
 幾らなんでもそりゃ無いだろ。きっとゴジラの気のせいだよ。
 気付けば時間は過ぎていって、二時間続きの家庭科の講義はようやく終わった。あたしは教科書をロッカーにしまってから自分の席に戻った。次は現代文か……うぅむ、この先生もあまり好きではないんだな。一昨年……中三の時の国語の先生は好きだったんだけど、何かの事件で死んじゃった。詳しい事は、知らない。それ以後の国語はずっと今の人。あぁもう、退屈。
「楓、起きてるー?」
 友達……美佐の声。んにゃ? あたしは寝ていたか?
「起きてる……何かご用事?」
「いや、何かボーっとしてたから。それより――……今日のゴジラ、調子奇妙しくなかった?」
「調子も何も……いつもあんなんじゃないの?」
「そうじゃなくて、えーっと……あんたの方がボケてんじゃない、みたいな。私今日の授業中で誤字五回みっけたよ」
「うぞッ」
 それは困るって。あたしはさっき仕舞ったノートを開いた。
「えーっとねぇ」
 美佐が探し始める。あたしも同時に探す。やっぱりあたしもボーっとしてたんだな。
 あたしはそれを直しながら、今日のゴジラの不調について考えた。何か彼女の調子を狂わせる事が起こったのか、なんなのか――……息子の受験地獄? いやいや、子供が居るなんて話も聞かない。あるいはスランプ? 何処が。あるいは……自分がゴジラって呼ばれてることに気付いたとか? いや、そんな事でボケられちゃ堪んない。
 結局、当然ながら結論は見つからなかった。
 そしてまた、退屈な授業が始まった――……。

   *

「あ、松井先生――……次の実習の準備なんですけど」
 家庭科・調理室。松井都美子が室内に入った途端、助手の一人・田宮が駆け寄ってきた。
「えぇ、すぐに準備して下さい。あと十分で生徒が来ますからね」
「それが、あの――……」
「何ですか?」
 申し訳なさそうにしている田宮に都美子が尋ねる。
 彼女は小さな声で真相を明かした。
「どうやら、卵が足りないようなんです――……残っている物で足りると思っていたらしいのですが」
 その言葉に都美子がキレた。
「ならすぐに買ってくるなりすればいい事でしょう! 今の時間は実習入っていなかったでしょうッ」
「それが、そこのスーパーが休みで……」
 都美子がため息を吐いた。
「じゃあ分量を変えるしかないですね。時間も無いですから」
 素っ気無い都美子の答えに、田宮は申し訳なさそうに準備室に走っていった。
 都美子がため息を吐く。
「全く、あの子はなんだろうね……気が利かないというか。使えないわねぇ」

 ――その言葉を、背後にいた誰かが、聞いていた。

「そんな風に言うものじゃありませんよ、松井先生。彼女は彼女なりに頑張ってるんですから」
 都美子がハッとして振り返った。
「! やだ、小杉先生……盗み聞きだなんて酷いですわ」
 小杉夏江。もう1人の家庭科の教員だ。
「盗み聞きじゃありませんよ、たまたま通りかかっただけです。それに――……今回の件は田宮さんだけの所為じゃありませんよ。初島さんも気付かなかったらしいですし、スーパーが閉まってたのも仕方の無い事ですし」
「そんな事を言っているから……彼女だっていつまで経っても成長しないんですよ? 小杉先生が甘いんですッ」
「松井先生が厳しすぎるんですよ……」
「そんなことはありませんわ」
 会話はそこで終わった。都美子はすたすたと歩いて準備室の方へ向かう。
 夏江がため息を吐き、その場に静寂が流れた。

   2

 あたしが家に帰ると、リビングで兄さんがテレビゲームをやっていた。何をやってるのかと思えば、巷で随分前に流行った……いわゆる、恋愛シュミレーション。敢えてタイトルは言いません。兄貴……廃れるなよ?
「お帰り、楓。テーブルに草餅あるぞ」
「……いただきます。兄さん、そんなん持ってたんだ?」
「昔買ったんだよ。お前は知らなかったかも知れないけど」
「で、それをまたやり直してると……」
「部屋の掃除してたら出てきてさ。なんかやりたくなったんだよ」
「そうですか。勝手にやってて下さい」
「楓ー、素っ気無ェな?」
 当たり前です。
 あたしは袋から草餅をひとつ取り出して、椅子に座って食べ始めた。それから何となく、テレビ画面を眺める。画面には今、有り得ない事に青い髪の女の子がアップで出ている。理由は判んないけど顔を赤らめてる。何て言うか、仕草が女の子女の子してるっていうか……。兄貴、こういう子好きなんか?
 あぅー、あんこが美味しい。
「おいー、何で怒るんだよー」
 兄さんがテレビ画面に向かって呟く。それはアナタの接し方が悪いのです。
「楓だったら爆笑するところなんだけどなぁ……」
 どういう意味ですかそれ。少々ムッとしたけど、言わなかった。
 要するに、あたしとその青髪の子は違うって事なのです。それぐらい判りなさいよ、兄さん。大体そのゲーム、一回クリアしてるんじゃないのかな? あ、判った……全然クリアできなかったから、部屋の片隅に放って置かれたんだな。うん、きっとそうだ! 兄貴め、ゲームですら振られるの巻。道理で彼女が出来ない訳だ。
「ところで兄さん、学校は?」
「今日は休講だと」
「……それでその子と遊んでるって訳ですか。名前は?」
「…………茜ちゃん」
「ち……ちゃんとか付けるなッ」
 全くもう、そんなんだからダメなんだよ兄貴ィ。
 茜、かぁ。嫌いな名前じゃないけど……あの子……髪青なのに似合わないぞ? どんなネーミングやねん、制作会社よ。
 あたしは草餅の最後の一口を飲み込んで、部屋に上がろうかと椅子から立ち上がった。
「楓、やってみねェか?」
「やりませんッ」
「んだよ、つれないな。クリアしてくれたら一万やろうかとも思ったんだけど」
 そんなのにつられるほど子供じゃありません。
「べーだ。ゲームは自分でクリアしてこそ楽しいんです! 自分でやって」
「お前、金困ってるとか言ってただろうに」
「……言ってたけど。でも自分で何とかするわよ」
「来月分の小遣いも先払いしてもらってただろ?」
「…………なんでそんな事まで知ってんのよ」
 その場にいた訳でもあるまいし。
 兄さんはこっちに振り向いて、自信満々な顔で言った。
「オレの情報網ってのは侮れないんだよ、楓」
「……どうせ母さんか父さんに聞いたんでしょうが。でもあたし、兄さんにまで恵んでもらうつもりは毛頭無いよ」
「お年玉も使い果たして、来月分の小遣いも貰って……今はそれで生活してるってところか?」
「衝動買いさえしなければ食費だけで何とか持つわよ、再来月……」
 三月――……クッ、食費だけでも少々辛いな。
 あたしが詰まったのを、やはり兄さんは見逃さなかった。
「ほら見ろ、ここに綺麗な一万円札がありまーす」
諭吉のお札をびらびらとあたしに見せつける。確かに今あたしの財布の中に諭吉さんは居ませんけども。それどころか漱石さんですらも危ういけども。
「その手には乗らないからッ! そんなんで女捨てたくないしッ」
「捨てる訳じゃねェだろ。オレを助ける事だと思ってさぁ」
「彼女は現実で作りなさいよッ!」
 それを最後の台詞にして、あたしがリビングから出ようとした時だった。
 思いっきり、ドアを開けて入ってきた母さんと鉢合わせ。
「うわッ。楓、帰ってたんだ」
「……た、ただいま」
「今お茶淹れようと思って下りてきたんだけど、ちょっと飲んでかない?」
「今草餅食べたけど……」
「甘い物の後はお茶よー! 昔からそう決まってるのッ」
 母さんはノリノリの口調でそう言って、急須の準備を始めにキッチンに向かう。鼻歌を歌っている。全く、どんな親?
柘榴ざくろも飲むー?」
 母さんが兄さんに向かって叫ぶ。ちなみに柘榴ってのが兄さんの名前ね。壮絶なくらいに命名意図が判んないけど、訊きたくもなかったから訊いた事は無い。ガンダムが流行るたびにザクって呼ばれてたけど、喜んでたんだかどうだかも、知らない。
「おー、飲む飲むッ」
「ちょっと待っててね」
 お湯を注いだ急須を強請りながら……違う違うッ、揺すりながら母さんが言った。急須から金巻き上げてもしょうがないでしょうに。むしろ売っても今じゃお金にならなさそう。
 あたしはさっき立ち上がったばっかりの椅子にもう一回座りなおして、草餅にまた手を出した。こういうのは食べた者勝ち。
「あい、楓の」
 母さんがあたしに湯飲みを差し出す。あたしは「さんきゅ」と言いながらそれを受け取る。まだ熱そうだからしばらく草餅に専念。
「あい、柘榴」
「うぃ、どーも」
 兄さんのところまで行って湯飲みを渡した母さんは、テレビ画面に興味を示す。あーだから、見せない方がいいって、そういうの――……!
「何これ、どーいうゲーム?」
「あぁ、この女の子を落とすんだよ」
「『落とす』」
「だから、例えばこの子を――」
 おいおい、説明し始めるなって。母さん、一旦興味沸いたら止まらないんだから――。
 そんな事をあたしが考えている間にも、兄さんは説明を続ける。いい加減にした方がいいんでは。
「へぇ、面白そうね! ちょっとやらして?」
「おぉ! 大歓迎ッ!! むしろクリアしちまってくれいッ」
「よーし、じゃあ徹底的にやるわよー」
 腕まくりまでしてるぞ、この人――……勘弁して下さいよ、おにーさん、おかーさん。
 あたしはまたため息を吐く。残り半分の草餅と熱いお茶を相手に、なるべくテレビ付近の修羅場を見ないようにして、こっちはこっちで格闘した。
「!! やったわ、これっていい反応なんでしょッ!?」
「おーっ、すげぇ!! 母さんやるじゃねーか」
「当然よッ」
 もう、聞いてらんないって、こんな会話…………。
 あたしは草餅の欠片をお茶で流し込んで、さっさとリビングから退散した。
 母さんの戦いの結果は知らないけど、夕飯の時に2人が物凄く嬉しそうだったから、多分クリア出来たんだと思う。全く、この中にあたしも紛れ込んでるって言うのが頂けない――……。

   *

 それから一週間近く経った、夜だった。
「眠れない……」
 明日は調理実習、変に寝不足で行くのも困る。ちゃんと寝とかないと後々大変だろうし。でも――眠れないのは眠れない。ただ、あたしにはその理由が、さっぱり判らなかった。遠足前日の小学生じゃあるまいし、興奮して眠れないなんて事も無いのに――……。
 あたしはベッドから起き上がって、何となくカーテンを開けてみた。
 綺麗な、月が見えた。部屋が暗い所為か、雲が無い所為か――……いつも思うよりも、眩しく見える。月って、こんなに眩しかったっけ――――?

 そんな事を考えながら、何となく、真っ暗な空を見上げる。郊外とは言え東京の空に、星は点々としか見えないけれど。理由もなく妙に不安が募るあたしには、それを落ち着かせるにはぴったりの風景だった。
「……この感じ……は」
 前にも、感じた事があるような気がする。何処、だっただろう?あんまりよく、思い出せない。
この感覚と同時に、思い出されるのは――……?



 あの店?


 ―――……まぁ、気のせい、って事にしよう。

 とりあえず今は、

 何とかして寝付くことを考えなきゃ―――……。


   *

 どうやらその後、あたしはすぐに寝付けたらしい。気付くと目覚し時計が鳴って、あたしはそれを止めて、いつものように起き上がる。カーテンを開けて、ベッドから下りて、部屋を出て、顔を洗って――……一階に下りた。
「あら楓、今日は早いのねー」
「……偶々。調理実習一、二だから早く行かなきゃなんないし」
「そう、大変。今目玉焼き焼くから」
「うん」
 で、あたしはパンをオーブンに入れまして、しばらく待機です。現在時刻は朝六時。冬のこの時期、まだ夜明け前。まぁ、家を出る頃にはもう日が昇ってると思うけど。
 朝刊の見出しを眺めながらも、特に興味は無かったので本文は読まなかった。とりあえず目の前に用意されてる紅茶だけちびちび飲みながら、オーブンが鳴るのを待った。
「柘榴はまだ起きて来ないのかしら」
 母さんの呟きに、父さんが答えた。
「まだだろ。思うに七時七分前にノロノロ起きて来るな」
 七分前とは、妙に律儀な。まぁでも、父さんってそういうところの勘が何でだか鋭かったりするから、あたしからは何とも言えないんだけど。しかし『勘』って、女のが鋭いんじゃなかったかい?――……ま、逆になる事もあるって事だね。母さんの勘が鋭いとはとても思えないし。
 オーブンがお知らせ音を鳴らす。あたしはそれに反応して、皿を持ってキッチンに向かう。パンを取り出して、ついでに冷蔵庫からマーガリンも持ってきて、また着席。マーガリンをパンに塗ったりしてる間に、母さんが目玉焼きを持ってきてくれた。ちなみにあたしは半熟派。
「うーわ、完璧液体じゃん。お前よく平気だな」
 ――……父さんは固い方がお好みらしい。
「平気って、あたしはこれが好きなの」
 人の好みにケチはつけない! これが鉄則なんだから。
 あたしはパンを齧ったり目玉焼きを食べたり紅茶を飲んだりしながら、朝の空気を楽しんだ。この場に兄さんが居ないのも、ある意味幸運だったかも知れない。
 朝食を終えて、あたしはまた着替えに部屋に戻る。制服を着て、リボンの長さを整えて、それから――……鞄の中身を確認。エプロンと三角巾――という名のバンダナが入っている事も確認。あと忘れ物はとりあえず無いはずだから、これで出発できるはず。現在時刻――午前六時三十五分。家から学校までは自転車で十分足らずの距離だから、一時限目、八時半まで時間はまだまだたっぷりある。さて、その間に何をするかい?
 宿題とか、残ってなかったよね。特にやる事も……無かった。テレビでも見ていく事にするかな。
 あたしは鞄を持った上でコートとマフラーを引っ張って、また部屋を出た。

   3

 その日兄さんは父さんの予言通り六時五十三分に大あくびをしながらリビングに現れた。あたしはそれに爆笑してから、七時四十五分に家を出た。
 学校に着いたのは八時ちょい前。まぁ大体予定通りと言ったところ。普段よりは少し早いけど、調理実習だから早く来ておいて損は無い。あたしは自転車を自転車置き場に止めて、鍵を振り回しながら下駄箱に向かって歩いていった。「おはよ、楓ー」
「おー、おはよう」
 下駄箱で美佐と鉢合わせる。まぁ、いつも通りの事。雑談をしながら靴を履き替えて、教室……というかロッカーに教科書を取りに行って、それから家庭科室に向かう事になった。
「弁当箱持ってきた?それともすぐ食べる?」
 美佐からの質問。
 そっか、調理実習で作る料理、時間無いから弁当箱に詰めて昼御飯にしてもいいんだっけ。
「あー、忘れた!あはは、でもだいじょぶだいじょぶ、すぐ食べられるって!」
「そーだよね、楓だもんね」
「あははッ、そうそう……うぅ、泣けてくるぞッ」
 ワタクシ泉谷楓、自他共に認める早食いなもので――……。
 美佐が慰めてくれた。
「問題ないよー。楓、食べるの早いだけでいっぱいは食べないし。それで大食いだって言うんなら話は別だけど、太ってる訳でもないしさ」
「そう言ってもらえるとありがたいです、はい……」
「やだなぁ、朝から沈まないでよッ」
 そして二人で笑った。相変わらずの事だけど――……でもそれが今日は、出来なくなるって事をあたしたちは知らなかった。その日は笑っていられるほど、あたしたちは持たなかった。理由?それはこれから説明します――。

 あたしは鞄の中に教科書を詰め込んでそれを背負いなおし、美佐と一緒に階段を下り始めた。それがある意味、運命の階段――……だったのかも、知れない。ま、シャレた言い方をしてみれば、ってところだけど。


 各教室のあるホームルーム棟二階から、渡り廊下で特別棟に移る。ここには音楽室から家庭科室から何から、職員室までが揃っている。まぁ、それぞれのホームルーム以外は全部ここにあるって事。だからはっきり言って、こっちの方が建物は大きかったりする。
 特別棟同じく二階、家庭科調理室。廊下から聞く限り、中から人の声はしなかった。まだクラスの人は来てないって事かな――……なんて思いながら、あたしたちはその入り口の扉に、手を掛けた。


 そして、開けた。




 開けた瞬間――……すぐにその異変は判った。判ったけど、あたしには――……叫ぶ事すら、ままならなかった。

「か…………かえで……ッ、楓ッ」

 美佐の声が、聞こえる。
 あたしの身体を、揺さぶって――……いる。

 感覚が鈍っている。
 あたしには、声を出す事も、出来なかった。

 ただ、今あたしの目の前にある惨状から、必死に目を逸らすだけ――……。

「楓ッ、きゅ、救急車呼ばなきゃッ」
「……みさ……ゴメン、あたし…………無理、みたい」


 あたしの心臓は、これまでに経験したことの無い速さで動いている。
 救急車を呼べるほどの落ち着きは、その時のあたしにはなかった。

 美佐が頷いて、携帯を取り出して、電話を掛け始める。



 部屋の中で、血を流して、人が――……いや、ゴジラが……先生が、倒れていた。


 あたしは、何をすればいいんだろう――?

 とりあえず壁に沿ってゆっくりと歩いて、家庭科準備室の方に、向かった。
 そこに誰か、他の先生が居ないかと思ったから。

 でもその前に、この心臓――……何とかしない?

「楓ッ!!」

 最後の記憶は、美佐があたしの名前を呼んだ、その声だった。

   *

 目が覚めると、あたしは保健室のベッドの上に居た。
「――……あれ?」
 あたしの声に反応して、保健室の先生がこっちにやってきた。
「泉谷さん、大丈夫? もう落ち着いた?」
「あたし――……何でここに」
「気を失っちゃったのよ、もう大丈夫そうね。教室戻れそうかしら」
「教室、って、えっと……クラスの?」
 家庭科は、?
 時計を、見る。
「うん、あ、でももう4時間目終わっちゃうわね。お昼休み始まったらまた加賀見さん来てくれるって言ってたから、それまで待ってたら?」
 美佐、か――……。
「――はい」
「お水か何か飲む?」
「あ……いただきます」
 何だか判らないけど、喉が渇いていた。
 ところであたし、どうして気を失って――……?


 って。


 ゴジラが倒れて…………。

 あたしは、それを見て―――……。

「せ、先生ッ、あたしやっぱり戻ります!」
「え、でも今行くと――」
 こんな呑気な事やってる場合じゃない。
 確かめに行かなきゃ! ゴジラが無事なのか、どうか――……家庭科の先生に聞けば、何かしら答えてくれるだろうし!

 あたしは水を飲むのも忘れて、保健室から飛び出した。

   *

 特別棟の階段を、保健室のある一階から二階に上っていくと、いつになくにぎやかな人の声が聞こえた。
 そして、階段を上りきる。
「あれ――……?」

 あの人たちの格好は、警察?
 あたしがそれに気付いたのと、ほぼ同時に。
「あ、きみ君ッ! 今ここ入ってきちゃダメだよ! 授業戻りなさい」
 警官の格好をした人……いや、警官のひとりが、あたしに定番の台詞を、言う。

 定番?
 それって――……どういう事?

 でも、あたしは一番最初の疑問の答えを確かめないといけない。その為にここに来たんだから。
「あたし……さっき先生が倒れてるの見て気絶しちゃってッ、今先生大丈夫なのかと思ってッ」
 あたしの言葉を聞いて、その警官さんが固まる。
「君……が、第一発見者か……」
「だいいちはっけんしゃ、って……それ」
 その単語は普通、どういう時に使われるモノでしたか、楓さん?
 確認したくもない事実が、頭の中を駆け巡る。

 どう考えても判り切っているのに、それを言葉にする事が、怖かった。
「どーしたのー? あれ、」
「茨木さん、この子がどうやら第一発見者の生徒のようです」
「あ、ホント? どうもどうも。じゃ、戻っててください」
「はいッ」
 警官さんは戻っていく。あたしの前には、代わりに茶髪の刑事さん……らしい人。
「あれ、授業は?」
「保健室で寝てたんですけど……で、先生は……やっぱりこれって」
「……あぁ、多分その認識で間違いはないかと」
 敢えて直接的には表現しない刑事さん。警察が居るって事は、結局、死んじゃったって事か―――……ため息が、零れた。むしろため息と言うよりは――……肩を落とした、っていう感の方が強いけど。
「純? どうしたんだ?」
 家庭科室の方から声がして、誰かがこっちに近付いてくる。茶髪の刑事さんは振り返って、その人に向かって手を振っている。
「おぅっ、朗報だッ」
 何が朗報だって? あたしが来た事? 結局そんな風にしか見てもらえない訳か――……少しムッとした。
 刑事さんに連れられて、あたしは家庭科室の方に少し、近付く。でも一定以上は、とても近寄れなかった。向こうから来た人も、刑事さんなんだろうか――?いや、知らない人だったら、警察関係者以外は考えられない。
「この子が第一発見者らしいぞ」
「あぁ……起きたのか」
 そう、ぶっきらぼうな口調で言ったその人の顔に、あたしは見覚えがあった。
「あのお店の――……ッ!!」
 思わず指差して叫んでから、慌てて右手を仕舞いこんだ。いけないいけない、人を指差しちゃいけない。
 今日は洋服、というか――周りに刑事さんたちが居て何ら奇妙しくない、スーツ姿。服装だけで人の印象ってかなり変わるとは思ってたけど、ここまで激しい人も初めて見た。もっとも、第一印象が特殊だったって言っちゃえば同じなんだけど。
 と、思ってた間に。
「あれッ、道理で見覚えあると思ったら泉谷しげるさんだッ」
「だから違うってーの…………ッ!!」
 あの小猿の声に、あたしは思わず速攻で突っ込んだ。

 ――あれ、何処に居るの?

 あたしがきょろきょろ周りを見回してると、目の前に子供が現れた。一見して、普通の子供とは違う。髪の色は……何コレ、緑? 黄色? 変な色。大きな目は綺麗な蒼色。楽しそうに笑った口には、キバみたいなものが見えた。

 …………おい、こいつ人間か?

 あたしと小猿もとい人間もどきと睨み合っていると、直実さんが話を再開してくれた。
「それじゃ、本名を教えてもらうついでに――……事情聴取ってところだな、純?」
「どーいう関係かは知らないけど……知り合いな訳ね、君ら」
 純と言うらしい刑事さんはあからさまにため息を吐いて、あたしに付いて来るように言った。

 完全に麻痺していたけど――……この状況が決して、笑っていられるものじゃない事は、確かだった。