こ は る び よ り 探 偵 日 記 ― 第七話 影なき悪魔と梔子の花




第二章「壊れかけのシェルターにて」

   1

 夜桜緋十美。実際顔を合わせるのは春以来か。今日もワインレッドが基調のコーディネートだ。彼女の背後に引き連れられている自称・浅生永樹は私の視線に気付くと、小さく微笑んで軽く敬礼のようなポーズを取った。
「席は自由なんだよね」
「……え、えぇ」
 緋十美は私の方を見てニッコリと笑い、至って普通のことを言ったので少々面食らう。何故か身構えてしまう。怖がっているわけではないが、何せ殺し合いの約束をした相手である。まさか他人の居るここでいきなりということは無いにしろ、きっと何か用があって来たのには違いない。何を言われても驚かない覚悟はしておかなければ。
 私がそんなことを考えていると知ってか知らずか、彼女は浅生を引き連れてスタスタと店内を進んで行く。――と、私の目の前を通り過ぎた辺りでふと突然足を止めて振り返った。急に止まったので、すぐ後ろについていた浅生がワッ、と声を上げて彼女に激突しそうになる。が、緋十美は全く動じない。
「……幸穂?」
 驚いた顔で、聞いたことのない名前を呟く。誰か友人が居たのだろうか――と店内を見回してみるが、反応している女性は見受けられない。……強いて言えば、目の前の人が青褪めた顔で固まっていた。
「オハヨー、ヒトミ、オハヨー」
 硬直している麻耶の代わりになのか、みっちゃんが挨拶の言葉を返す。もうオハヨーの時刻ではないが。
 さて、兄が彼女の名を知っているのは当然だが、当然のように名を呼んで挨拶を返すというのはどういうことか。まさか緋十美が、この鳥の中身が兄だと知っているはずはないだろうし――知られればその瞬間消されるに決まっている――、だとすればこの鳥は“みっちゃんとして”彼女を知っていることになる。しかし、いくらみっちゃんに個人行動が出来るとは言っても、麻耶の知らない個人的な知り合い、というのは有り得ないだろう。さらに緋十美は女性の名前を呼んだ。――とするとすなわち、
「ゆきほ、さん?」
 麻耶が当人としか考えられない。
「人に向かって指をささなァい! ……あー……、うー」
 叫ばれてしまったので、指はすぐに引っ込めた。麻耶は珍しく狼狽した様子で、顔を真っ赤にしながら髪をぐしゃぐしゃとかき回している。緋十美の方はと言えば、ぽかんと口を開けて不思議そうな顔をしているのみだ。この状況で説明を求めるならどちらがいいのだろう、と私が悩んでいる間に、緋十美の方が先に口を開いてくれた。
「幸穂、直実君と仲良いの? 知り合いだったっけ?」
「知り合ったのは十年以上前ですね。どちらかと言うと私の方が訊きたいです」
 私と緋十美と二人から同時に責められて、麻耶は視線をウロウロさせながら苦々しい顔をしている。……ここで顔を合わせる程度のことなら充分有り得たことだと思うのだが、全く想定していなかったというのも不思議な話だ。まぁ、突っ込むのも可哀想なので心のうちに留めておくことにする。
 麻耶が答えないせいか、緋十美は話をする対象を私の方に切り替えた。
「あのね、幸穂は僕の……、僕とお姉ちゃんの友達なの。実家がすぐ近くでね、幼なじみって言うのかな」
「幼なじみ、ですか」
 到底相性が良さそうには見えないが。いや、幼なじみが皆仲良しだと思ったら間違いだな。しかし、こんな風にニコニコと楽しそうに話している限りでは、どう見てもごく普通の大学生なのだが――……いや、今はそんなことを考えている時ではない。
 緋十美はただの友人であるはずの浅生にさえ術のことを話している。だとすれば、幼なじみだと言う麻耶が知らないはずがない。となると、あの時(、、、)兄に対して『君、術師だね?』と言ったのは、別に見破ったとかそういうわけではなくて、――。……自分の勘違いを人の責任にするのは良くないか。追及は避けておこう。
 しかし麻耶が夜桜家の関係者なら、何故今までずっと私の味方だと強調してきたのだろう。兄の態度から考えると、どうやらそれは本心らしい。関係者だからこそ、と取れなくもないし、兄がペットの身体を占拠したことも関係しているのだろうとは思う、が。――どちらにしても、私の味方をしていることが緋十美に知れれば、私も麻耶もただでは済まないのは確かだろう。ここは空気を読んで黙っておくべきか。
 しばらく一人で百面相をしていた麻耶がようやく意を決したようにパッと顔を上げた。そして緋十美の方を向いて、叫ぶ。
「け、ケーキが気に入ったのさッ!」
「……ん……うん。美味しいよね」
 言い訳にしか聞こえなかったじゃないか。緋十美も明らかに反応に困っている。もっとも、意味がよく判っていない様子なのは救いかも知れない。
 その微妙な空気を敏感に感じ取ったのか、麻耶は顔を赤くしながら素早く振り返り、既に着席していた浅生の隣の席に手を掛けた。
「葵ちゃん、相席してもいいかい? ほら、緋十美も早く座って。楓君、レアチーズとアイスティーね。レモンもよろしく頼むよ!」
 そう言いながら緋十美の腕を引っ張って浅生の正面に無理矢理着席させ、自分は浅生の隣を陣取る。物凄い一人芝居だった。呆然として立ち尽くしていた楓さんがそろそろとこちらを向いて苦笑し、「だ、そうです」と伝言。言われなくても聞こえていました、という意味で苦笑を返し、私は――……真面目に、仕事をすることにした。

   *

 その後浅生と緋十美の注文に応じたり他のお客様の対応などしているうち、彼女らもようやく静かになった。もっとも、騒いでいたのは麻耶一人だったような気もするのだが――……まぁ、責めればまた騒がしくなるだけだ。そもそも私が客である彼女らに必要以上に絡む方がおかしいのであって、一人静かにしていても何ら問題はないはずだ。
 ――よし、無関係を装おう。と私が心の中で決めた矢先に、
「それならナオミ君が詳しいんじゃないの? ね!」
 呼ばないで下さい。名指しにされたら反応せざるを得ないじゃないか。間違った名前で呼ばれているから反応しないという選択肢がないこともないが、反応しなければまた呼ばれるだけだ。
「……何の話ですか?」
「殺人事件。緋十美のマンションで女の人が殺されたんだって、それも二人! 一昨日。知らないの?」
「この近くなんですか? 少なくとも依頼は来てません」
 と、思わず答えてからハッとする。浅生はともかく、緋十美は私の後ろめたいアルバイトのことは知らないはずではなかったか。
「羽田杜だから近いと言えば近い、かな。依頼って何? 直実君、何か変な裏稼業でもやってるの?」
 慌てて口を押さえても、もう遅かったらしい。思わずため息が零れる。
 ――……待て、所在地が羽田杜だと言ったか? 事件発生は一昨日?
 少し、嫌な予感がする。
 私が返答を保留して悩んでいる間に、麻耶が『変な裏稼業』について勝手に説明を始めていた。もう駄目だ。近いうちに周知の事実になってしまう覚悟をしておこう。
 説明が終わったらしい麻耶が、身体ごとこちらを向いて尋ねる。
「依頼来てないってことは、すぐ解決しそうなのかな?」
「さぁ、私は警察ではないので何とも」
 依頼が来る来ないの基準など知らない。刑事に聞いて欲しいところだ。
「ぶう、冷たい!」
「ですから私は飽くまで一般の(、、、)いち羽田杜市民であって、警察の内部事情なんか知りません。殺人事件なら全部知ってると思ったら大間違いです」
 つい、まくし立ててしまった――。珍しく、麻耶が少ししゅんとしている。
 しかしこの小さな市内での殺人事件の発生率、発生時期や発生場所の一致などから考えると、昨日蒼杜署が騒いでいた例の事件がそれ(、、)だという確率は、限りなく一〇〇%に近いだろう。

『状況的には明らかに怪しいらしいんだけど、』
『……やったのは俺じゃない、んだと』

 祥太と健吾さんの声が次々に脳裏に浮かぶ。――苦々しい。私にとっては呪われた言葉。無意識に表情が歪んでいくのが判る。
 関わりたくない。この事件には、出来ることなら関わりたくない――。

「……何か知ってる顔だね。昨日行ったよね、蒼杜署。そこで何か見たか聞いたかしたんじゃないの?」
 つい今し方まで凹んでいたはずの麻耶が急に回復して、いつもの不敵な顔で私に迫る。そうだ、すっかり忘れていたが、この人と馬鹿鳥は私のストーカーだった。見ていたのなら、否定しても意味はないだろう。
「詳しいことは何も知りません」
「えー、本当?」
 信じていない顔と声だ。
「ですから、」
 私が麻耶に対してさらに反論を続けようとすると、それを遮るように、緋十美がパッと手を挙げた。思わず、喋るのを止めてしまった。すると緋十美はキラキラと目を輝かせながら、子供のように明るい声で、言った。
「ねぇ、僕が教えてあげよっか?」
「えっ……?」
 確かさっき、緋十美は同じマンションの住人だと言っていなかったか? いくらすぐ近くで起きた事件と言っても、当日の細かいタイムテーブルや現場の状況まで判るはずがない。被害者やその周辺の人間関係などは判るにしても限度があるはずだ。
 私がその疑念を顔に出してしまっていたのか、緋十美は少し頬を膨らませながら続けた。
「殺されたお姉さんとはよく会ったし、仲良くしてもらってたの! だから許せないんだよ!」
 自分も人殺しをしておいて何を言うか、と思わなくもないが、今ここで突っ込んでも仕方ないのでやめておく。
「……でも、犯人が判ったところで逮捕できる訳じゃないんですよ」
「捕まえて欲しいんじゃないよ。本当のことが知りたいだけ」
 それはどういう意味だろうか。仮に昨日の事件がそうだとして、疑わしい人間は既に警察に捕らわれている。それを緋十美が知っているなら、捕まえて欲しいわけではない、という思考回路になるのはおかしくない――、のか?
 私が何も言わずに居る間に、緋十美は話を勝手に進め始めた。
「あのね、僕の二つ隣の部屋でね、夫婦で住んでたの。二人とも僕の二つ上、かな。殺されたのはその奥さんと、……もう一人、女の人。第一発見者は旦那さん」
 近所の住人の噂と言うのはなかなか侮れないようだ――。
「その、もう一人の女性が何者かは判らないんですか?」
「うーん、皆は旦那さんの浮気相手じゃないかって」
 皆、というのはつまり近所の住人なのだろうが。これほど早く『浮気相手』という判断がなされるということは、夫自身がそのような評価をされていたか、常日頃から女性の影が見え隠れしていたか、というところだろうか――。
 しかしそれなら、夫の留守中に浮気相手が突撃し、色々あって結果的に二人とも死亡、という可能性が考えられなくはない。それにも関わらず第一発見者の夫が疑われていると言うことはつまり、
「現場の状況から見て、どちらかが自殺や事故という可能性は考えにくい、ということですか」
「え? そ、……そう、かな? 叫び声がしたから隣の人が見に行ったら、旦那さんが血のついた包丁を持ってて」
 なるほど、それで『状況的には明らかに怪し』かったのか。そのまま隣人に通報されたのだろう。
 しかし、夫は包丁を持っていたことについてどう弁解しているのだろう。その場に転がっていたものをつい拾ってしまった、か? いや、常識的に考えてそんなものを拾おうとする方がおかしい。思わず触ってしまうとしても目の前で倒れている妻や愛人の方が先だろうし、――確かに、言い逃れはしづらい状況だ。
「そっか。ナオミ君が行ったとき、その取調べ中か何かだったんだね?」
 そこで突然、麻耶が割り込んでくる。昨日警察署に行ったこと、それらしい事件の存在を知っていたことについてはバレても構わないが、あまり深入りして欲しくはない。しかし私のそんな顔を見たところで、黙ってくれる麻耶でもない。再び席を立って私の目の前までつかつかと歩んでくると、鼻が触れそうなほどに顔を近付けてきた。……鬱陶しい。
「依頼されてないなら、同席してはいないんだろうし。ってことは、」
「緋十美さんがずっと『死んだ』ではなく『殺された』と表現されていましたから、そう判断したまでです」
「……ふぅん」
 麻耶は顔を引いてくれたが、疑っている顔だ。確かに今の発言は理由のひとつではあるが、大前提として『夫が疑われている』という事実を知っていたのも、事実。私がこれ以上何か言うつもりはないと目で伝えると、麻耶は少し首を傾げながら席に戻っていった。そしてストレス解消でもするかのように、休むことなくケーキを口に運んでいく。
 ごく僅かな静寂の時間。いつも通りの店内。
 私は――……関わっては、いけない。
 仮に緋十美が、知り合いが解決を望んでいるとしても、私個人には関係のない事件。無理に関わって、後で苦しむのはきっと私の方だ。
「何ヲ、怖ガッテイル」
 とても小さな声がした。今までずっとカウンターの上で羽を休め、存在感を綺麗に消していた馬鹿鳥の声。――何か忠告しているつもりなのか。
「……別に怖いわけでは」
 どうせ私をからかおうとしているだけだ。緋十美と浅生が居るこの場で怪しい台詞を吐きまくってはまずいことぐらい、馬鹿鳥にも判るだろう。――と、何ら身構えていなかったのが間違いだった。

「重要参考人トシテ連行サレタ夫ハ、犯行ヲ否認。――違ウ? 違ウ?」
「みっ……!?」

 こ……こいつは、何という爆弾発言を――……!
 思わず声が上擦ってしまった。

 すかさず麻耶がこちらを向いて、またニヤニヤと笑いながら尋ねてくる。
「違う? って、みっちゃんが君に訊いてるけど。どうなの、そこんとこ」
「どうなのって、わ……私は本当に知らないんです!」
「うーん、図星だったね」
 詳しいことを知らないというのは嘘ではない。だから、答えられない。麻耶は私が反応しないのを不満げな顔で流すと、皿に残っていたチーズケーキの欠片を口に放り込んだ後、緋十美の方に向き直った。
「多分そういうことだね。緋十美的にはその旦那ってどういう人なの? 夫婦仲は冷え切ってたとか?」
「え……そ、そんなことないと思う。真面目そうなお兄さんだったし、二人とも仲良しで、あ、同じ会社に勤めてるの。よく一緒に買い物とかもしてたし、僕にもよくお兄さんの話してくれたし、……ラブラブなぐらいだったよ!」
 そうだ、そのままそっちで話を進めていてくれればいい。私は静かに茶を飲んでいればいい。仕事を頼まれれば、頼まれた時にこなすのみだ。

 大人しくそうしていれば、きっと判らない。
 私がその容疑者に自分を重ね見ていることなど、きっと判らない。

 緋十美はもう既に、この件に関して私が使い物にならないことを理解してくれたようだ。麻耶と浅生を相手に話を続け、こちらには見向きもしない。そう、それでいい。

「――……大丈夫、ですか?」
「え?」
 今までずっと聞こえなかった人の声。――楓さんだった。カウンターに寄り掛かって、私の方を見ずに話している。私からその表情は窺えない。
「なんか……その、いつもより、元気ないなぁって」
 その慎重な言葉の選び方は、彼女なりの気遣いなのだろう。私の態度を見て感づいたことも色々あるだろうに、『元気がない』の一言だけにとどめておいてくれた。何だか申し訳なくなって、つい嘆息してしまう。
 いつものことだ。くだらない意地を張って、結局後悔する羽目になる。私はもう少し、気を抜いてもいいはずだ――。

「私は元気ですよ」

 その、本当に何でもない、何気ない一言が。
 彼女の心の中で、一体何を刺激してしまったのだろう。

 突然こちらへ振り向いた彼女は、今にも泣きそうな顔をして、じっと私の目を見つめていた。
 どう――……したと、言うのだろう。さっきまで、私の方が心配される側だったはずなのに。何か私は変なことを言ってしまっただろうか。だとしたら謝らなければ。
「あ、」
「嘘じゃ、ないですよね……?」
「え?」
 違う。そんなんじゃない。
「無理してるんだったら、素直に言ってください。あたし、……それで直実さんにまで、居なくなってもらいたく、ないです」
 彼女は顔を赤くしてそう言い切った後、何故か小さくごめんなさいと呟いて、くるりと向き直ってしまった。はいともいいえとも言えず、私はどうしていいのか判らなかった。
 そういえば――前にも、同じような事を言われた気がする。それで私も思わず喚き立ててしまって、喧嘩になって、半壊して、麻耶に咎められて。そうか、だから彼女は謝ったのか。私こそ謝らなければいけないのに。

 そっと、浅生の様子を窺う。緋十美と何気ない話を交わして笑っている、一見ごく普通の青年。彼は彼で、何か重大なものを抱えているように見えるが――……それはまた、別の話か。彼が私の視線に気付く。こちらを向くとニッコリと笑って、楽しそうな声で言った。
「桧村さん、俺たちこの前誕生日だったんスよ」
 緋十美も便乗して諸手を挙げる。
「何かちょうだい!」
 ああそうか、この二人は誕生日が同じだから『双子』と呼ばれていたのだったか。――まぁ、気の重い話をされるぐらいなら、少しケーキをサービスするぐらい、ずっと平和でいい。麻耶はまだ何か引っ掛かっているらしく、厨房から彼女らのテーブルまで戻った私に何か言いたげな視線を投げつけてきたが、そのまま投げ返した。

 その後しばらくして、緋十美は「もし事件の続報聞いたら教えてね」とだけ言い残し、浅生と共に店を去っていった。誕生日プレゼントが功を奏したのかとても上機嫌で、殺し合いの約束などすっかり忘れているようにも思われた。彼女は本当に、少なくとも今日に関しては、ただ二人で茶を飲みに来ただけだったのだろう。
 ――しかし、一番の問題はまだ店内に残っている一人と一羽だ。
 何故だろう。事件の話を持ってきた当人より、麻耶の方が何か気にしているように見えるのは、一体どういうことなのだろう。
「何か言いたいならさっさと言ってください。不愉快です」
「……別に、楓君と一緒さ。いつもと違う(、、、、、、)。それだけだよ」
 名前を出された楓さんが肩を震わせたのが視界に入った。入ったけれど、私は目を伏せるだけにしておいた。
「違ったら何かいけませんか?」
「さっきみっちゃんが言ったこと。あれが本当だとして、君はたったそれだけのことで――」

 その後彼女が続けた言葉が、私の耳には言葉として届かなかった、ような気がした。
 代わりに私は、私ではない何者かに身体を明け渡した――……つもりになって、自分でも何だかよく判らないことを喚き散らした後、――すっかり燃え尽きてしまった。

   2

 直実さんがついにぶち切れて、仲裁しようとしたみっちゃんが人型に変化させられ、てんやわんやの騒ぎになった。目を覚ましたらしいハル君が顔を覗かせていたけれど、混ぜると余計大変なことになる気がしたので、帰ってもらうことにした。しばらく見守っていたあたしが最終的に耐えかねて「やめてください」と叫ぶと、今度は恐ろしいほど静かになってしまった。じゃあ、どうすれば良かったんだろう。判らない。それともこれで良かったんだろうか。

『貴女に私の何が判るって言うんですか! 判って堪りますか! 判って欲しくなんかありませんから!』

 彼の悲痛な叫び声が、耳について離れない。
 やっぱり五月のあの時から変わらず、彼はあたしの知らない何かを抱え込んだままだ。

 さっきはあたしも、理性を見失ってしまうところだった。勝手な勘違いで変なことを口走って、変な風に思われてないかな――……と思うけれど、この状況で確かめるわけにも、行かない。

 ――午後六時を回る。いつもなら、あたしはもう帰る時刻だ。でもこの状況であたしが抜けたらますます酷いことになりそうで、帰るなんて言い出せない。
 直実さんは玄関に背を向けて、一人で黙々と本を読みながら紅茶を飲んでいる。
 麻耶さんは麻耶さんで手帳を開いて仕事を始めた。時々あたしにお冷やを頼むけど、直実さんには言わない。
 で、二人の間で板ばさみになってしまった直路さんは、とりあえず麻耶さんの隣に座って、さっきからずっと物憂げな表情を浮かべている。ふとあたしと目が合うと彼は苦笑した後ため息を吐いて、穏やかな口調で切り出した。
「ねえ、二人とも。大人げないと思わない? 私に言われたくないと思わない?」
「うるさい黙ってろ鳥頭」
 ああ、にべもない――。
 今の直実さんに何を言っても無駄だと思ったのか、直路さんはくるりと方向転換して、今度は麻耶さんに迫る。
「なぁ、どうせ仕事すんなら帰らない? こんなんで落ち着く?」
「静かでいいんじゃない? 帰りたいならみっちゃんだけで帰りなよ」
「やだ。みっちゃん、一人やだ」
 駄々っ子のような言い方で拒否。多分みっちゃんと呼ばれたからなんだろうけれど、人間の姿で言われると物凄い違和感。そういえば今日の直路さんは何故か眼鏡を掛けているから、なおさら直実さんとよく似て見えてしまう。声は直路さんの方が少し高くて、雰囲気は結構違うけれど。
 ――と、店の扉が開く音がした。それに反応して直実さんが少し身じろぎしたのと同時に、あたしもとりあえず立ち上がる。
 そうして現れた客人の姿に、店内に居た全員の視線が突き刺さることとなった。
「……えっ?」
 想定外の事態に戸惑いの顔を見せて一歩後ずさったのは、――純さん。直実さんはその姿を確認した瞬間に向き直ってしまったので、あたしだけでもと挨拶しておく。
「い……いらっしゃいませ」
「あ、ああ……」
 純さんはひとまず頷いてくれたけれど、膠着状態はまだ続いた。誰かが動き出すまで何秒掛かるか計ってみようかとあたしが考え始めたその瞬間に、当の本人が凄い勢いで首を回して、まず直実さんに説明を求めた。
「なぁサネ、何だこの異空間は」
「異空間? 失礼だな、いつも通りだ。店長一名、従業員が一名、お客様が一名、……あと鳥が一羽」
 さすがにご指名があると無視はできなかったらしい、って、え?
「鳥? 鳥なんかどこにも――……」
 純さんはあたしと全く同じ疑問を抱いたらしく周囲を見回して、――直路さんの方に視線を向けて、そのまま固まった。そして何度か目を擦り、瞬きを繰り返して、不思議そうな顔になった。
 そっか、純さんはあの時居なかったんだ。直実さんが話してないなら、直路さんが生きてたことなんて知らないはずだ。
「……あれ? えっと……あの、あれ?」
「チャオ! 純くん、久し振りだね。元気だった? 直路お兄さんだよ!」
 両手を大きく広げて明るくにこやかに。どこの歌のお兄さんですかとツッコみたくなるような、とびっきりの笑顔。純さんは目の前で何が起きているのか、よく理解できていない様子。うん、今のはしょうがない――……と思っていたら、パッと直実さんの方に振り向いて、直路さんの方を指差しながら、叫んだ。
「サネ! 何だこれ! 本物にしか見えねえぞ!」
 へぇ……本物にしか見えないん、だ――……。
 両手を広げたまま放置された上に、思いっきり指差されている直路さんは少し寂しそうな顔になる。でも、そのままの姿勢で動かない。……やっぱり元々こういう人なのか。
 説明を求められた直実さんは面倒くさそうに純さんの方を見ると、普段よりだいぶ低い声でゆっくりと答える。
「だからそれが鳥。鬱陶しいから人間にしてるだけ」
「……鳥? え?」
 純さんが首だけ直路さんの方を向く。直路さんはそこでようやく腕を下ろした。
「サッシャぁ、それじゃあ説明になってないぞォ? ――純くん、たまにはお兄さんの話も聞いてくれよぅ」
「み……あの、ミチさん、ですか?」
「見れば判るでしょ! どう見てもどう聞いても本物のミチさんじゃないか!」
 純さんは困った顔をして、再び動作停止してしまった。あたしも完全に絶句。
 ――そうだ。この前ネタばらしした時に居たのは、元々直路さんの知り合いじゃない人がほとんどだった。でも純さんは昔からの知り合いで、しかもこの鬱々とした状況を打破してくれるかも知れない存在でもある。だから、きっと直路さんも嬉しくてついテンションが上がってるんだ。そうに違いない。……そうであって欲しい。
 しばらく俯いて悩んでいた純さんは突然パッと顔を上げて、真剣な目を直路さんに向けた。能天気に微笑むお兄さんも、その変化には気付いたらしい。
「どした?」
「じゃあ、お得意のおまじないをひとつ、お願い出来ませんか」
 それを聞いた途端、直路さんが目を見開いて、一気に表情が曇ったのに気付いた。その後すぐにあははと笑って取り繕ったけれど、――それは明らかに作り笑いだった。
「……悪いね、それは出来ないんだ。頼みごとがあるならあっちに頼むよ」
 あっち、と言うのは直実さんのことなんだろう。
 純さんは台詞を含めた直路さんの今の反応で、どうやら全てを悟ったらしい。
「鳥って……じゃあ、」
「文字通りの意味だ」
 直路さんの代わりに、返答したのは直実さんだった。
 その言葉を聞いた純さんは、今度は直実さんの方に食って掛かる。カウンターに音を立てて両手をついて、上から彼を睨み付ける。
「なぁ、お前まさか」
「言っておくが僕は無関係だ。それ(、、)が兄さんだって知ったのもついこの前だし」
「! 目――……何しやがっ……」
 あたしのところからは見えないけど、純さんの反応を見るに右目の色が変わったんだろうと、思う。
 ――だってほら、直路さんがまたみっちゃんに戻されたから。
 振り返った純さんが、黄緑色の鳥を凝視する。みっちゃんもそれに応じて、睨めっこのような状態になった。

 すると、一連の騒ぎをずっと無表情で見守っていた麻耶さんがため息を吐いて、口を開いた。
「君たちってホントにぎやかだよねぇ。楓君を見習ったら?」
「見習ッタラ!」
「何言ってるんだい、君もだよ」
「エッ!?」
 自覚がない――とも、思えない。きっと彼の冗談だ。みっちゃんはそこでテーブルから飛び立って、麻耶さんが差し出した右手にゆったりと着地する。
「で、刑事君。何しに来たの? ナオミ君と喧嘩する為じゃないよね」
 もし仮に、純さんが例の事件のことで依頼に来たのだとしたら。麻耶さんにとってこれ以上喜ばしい場面はない。直実さんはさっきの態度から見て嫌がるだろうけど、仕事なら多分断れない。
 質問された純さんは直実さんの目の前から離れて、さっきまで直路さんが座っていた――カウンターに一番近い席に、ふらりと座った。
「その前に、ちょっと休憩させてください。マスター」
 マスターと呼ぶには若干違和感のある服装ではあるけど、直実さんの立場は確かに喫茶店のマスター。だから、そう呼ばれることもよくある。純さんは恐らくそれをからかって言ってるんだと、思う。もっとも『よくあること』だからこそ、直実さんは別に表情を変えたりしなかったけれど。
「はいな。コーヒー?」
「ミルクティー。甘い奴」
 えっ。
 直実さんも少し驚いた顔をしている。反応も少し遅れた。
「……あぁ……うん、了解」
「糖分補給ってことかい? お疲れみたいだね」
「まぁそんなトコです」
 純さんたちがそんな雑談をしている間に、直実さんが紅茶を淹れ始める。
 いつものカップに注いだ後、ミルクと砂糖も投入している。――普通のお客様相手ならそこまでしない。それだけ、純さんは特別ってことなんだろうか。あるいは、味覚だけは把握してるってことなのかも知れないけど。よく試食係にしてるみたいだし。
「お願いします」
「――、はい」
 いつも通りの穏やかな声。湯気の立つミルクティーを受け取って、純さんのところまで運ぶ。結果的には、純さんが来てくれたことでひとまず落ち着いたと思っていい、よね――。身内みたいなものだから、ってことで、あたしも同じテーブルに着席させてもらった。
 純さんはミルクティーを一口飲むと、大きくひとつ深呼吸した。そして、麻耶さんが静かに問い掛ける。
「依頼に来たのかい?」
「……貴女、記者さんかなんかでしたっけ? 事件のことはもう知ってんですか?」
「まあね。殺人事件なんて、この近辺でそうしょっちゅう起きるもんでもないし。で、どうなのさ?」
 もし依頼に来たんだとしたら、麻耶さんはこの場で事件の情報を掴むことが出来る可能性が高い。純さんは少し迷惑そうな顔をしつつ、返答する。
「依頼、っていうより……相談しに来たって感じですかねぇ」
「どう違うの?」
「外で動いてもらう必要がなさそうなんで」
 つまり、直実さんに払っているお金は単純に拘束時間の関係と足代その他であって、店内でやってる頭脳労働は関係ないってことになるのね。……若干疑問を覚えないこともないけど、まぁ、税金は無駄遣いしない方がいい、か。
「容疑者が否認してるんだっけ。でもそれだけならよくあることでしょ? 難航してるの?」
「……へぇ、そこまでご存知なんですか」
 尋ねられた純さんはすぐには答えずに、ゆっくりとミルクティーを口に運ぶ。それから何か考えるように、右手を顎につける。
「話が進まないんです。なので、意見聞いて空気入れ替えようってことになって」
「それは結構だけど、お前は私に意見聞いて役に立つと思うか?」
「思わねえな。訊かなくても答えは判ってる」
 お互い不敵に笑いながらそう言い合ったお二人は、ほぼ同時にそれぞれのカップの中身を飲み干した後、そのまま綺麗に合唱した。

「――他の可能性も検討するべきだ」

 どうやら純さんは直実さんの真似をしたらしい。自分で言っておきながら、噴き出してお腹を抱えている。直実さんも、そこまでは行かないまでもクスリと笑ってからカップを置いた。――伊達に長い間付き合ってない、ってことなんだろう。あたしにはそういう間柄の人が居ないから、想像することしか出来ないけど。
「でも、今まで『他の可能性』は全然考えてなかったんですか?」
 せっかくなので、気になったことを訊いてみる。いくら最初は否認してても、確固たる証拠があるならいつかはきっと観念するはず。でも証拠はなくてただ怪しいだけなら、他の可能性だってちゃんと検討しなきゃいけないはずだ。警察はそうあって欲しい。うん。
 すると純さんはちょっとだけ唸った後、あたしに少し困った笑顔を向けた。
「じゃ。例えば、誰が犯人だと思う?」
「えっ……?」
 いきなりそんなこと言われても、判るわけがないじゃないですか。
 ……って、そういう意味じゃないのかな……?
「純、それはいくらなんでも判りづらい」
 直実さんが淡々と突っ込む。――ってことは、直実さんには今の発言の意味が判ってたってことか。うぅ、やっぱりちょっと悔しい。
 それに対して純さんが何か言い返そうとしたところに、麻耶さんが割り込んだ。
「あのさぁ、そういう話するんだったら事件の詳しい状況教えてよ。いきなり誰が犯人かなんて言われたって、登場人物の名前も知らないのに判るわけないじゃん!」
「登場人物て。……ま、今更伏せても仕方ないか」
 そう言って懐から手帳を取り出し、純さんはそのページをペラペラとめくっていく。
 その様子を見守りつつ、直実さんは頬杖なんかついて手持ち無沙汰に何か食器を弄っている。退屈そうだ。
 みっちゃんはすっかり大人しくなってしまって、くちばしで麻耶さんの指を突いたりなんかしている。こうやって見ていると、本当にただのインコだ――。

 そうこうしているうちに純さんの準備が終わったらしい。彼はひとつ咳払いをして、今回の事件の『登場人物』の詳細を語り始めた。
「現場は羽田杜市羽田杜二丁目の五階建てマンション、四階の一室。被害者はその部屋に住む若夫婦の奥さんの方、馳川亜沙子《はせがわあさこ》さん二十四歳と、」
「えっ?」
 ん? 直実さんが声を上げた。けれど、純さんは目線を一瞬彼の方に向けただけで、話を止めようとはしなかった。
「もう一人、花蜂市青梅町の深森奏子さん二十三歳。――で、第一発見者でもあり重要参考人でもあるのが旦那の」
「馳川文芳《はせがわふみよし》、二十四歳……で合ってるか、純」
 あれ? 詳しいことは何も知らないって言ってたはずだし、ついさっきだって被害者の名前に反応してたぐらいなのに。どうして知ってるんだろう、と考えて、あたしは恐ろしい想像に行き着く。
 純さんはそれを聞いて、何故か笑いを零した。
「動揺しないねぇ。てっきりまた、ダン!ってやると思ったのに」
「――……」
 ああ、カウンターを拳で思いっきり。手を痛めそうなアレ。直実さんは目を逸らして俯いてしまった。

 はて、事件の当事者たちの名前を聞けば、直実さんが動揺するだろうと思っていた――ってことはつまり純さんは、知っていた(、、、、、)
 ――被害者も加害者と目される人も、直実さんの知り合いだってことを。