こ は る び よ り 探 偵 日 記 ― 第七話 影なき悪魔と梔子の花
Prologue
覚えています、あなたが言ってくれたこと。
覚えています、あなたが教えてくれたこと。
覚えています、あなたが笑ってくれたこと。
――だからどうか、ほんとうの真実を語ってください。
わたしはあなたを、信じています。
第一章「呪われた言葉」
1
――暑い、ただひたすらに暑い。
東京地方は何故よりにもよってこの貴重な定休日に、三十八度などという常軌を逸した気温を叩き出すのか。どうせ暑くなるなら水曜を避けてくれれば一番嬉しいのに――……と思うが、世の中そう上手くは行かないということらしい。ヘルメットを置いてため息を吐く。
夏本番、七月も下旬。身近な中高生たちは夏休みに入ったところだ。毎日三十度を超えるのがほぼ当たり前と化し、昨日は東京での観測史上最高気温を記録したというニュースを聞いた。
自宅からこの警察署まで、バイクで約五分強。羽田南駅そばの踏切でのロスを考慮しても十分は掛からない。たったそれだけの時間で、一気にあの太陽とかいう天体に体力を八割がた吸い取られた気がする。返せ。……ああ、暑さで頭もいかれてきたようだ。本格的に壊れる前にと、私は駆け足で玄関の自動ドアを開けた。
二階にある刑事課の扉は何故か開け放してあったが、一応軽くノックして中を覗く。――人が少ない。出払っているのか、あるいは取調べが忙しいのか。どっちにしろ私には関係ないことだが。肩に掛けた鞄に突っ込んできた書類を確認して、いつものように奥のデスクに座っていた課長に渡す。彼は今日も暑いねぇご苦労様とだけ言って、すぐに解放してくれた。
――出すものは出した。これで義務は果たした。部屋の出口まで戻ったところで大きくひとつ深呼吸をして、冷たい空気を存分に味わった。外の暑さが異常だと、控えめなクーラーによる冷気でも充分に冷たく感じる。
しかし――……この私が、こうも頻繁に警察署に出入りするようになろうとは。すっかり慣れっこになってしまったが、昔の自分では考えられないことだろう。当初は建物に足を踏み入れるだけでも気が滅入りそうになったものだ。
取調室のひとつで何やらにぎやかにしているのを尻目に、私はすたこらと出口を目指す。知らない事件の関係者が喚こうと何しようと、依頼されていない限り、一般人である私には関係のないことだ。――と思っていたのだが、通り掛かった生活安全課から、見覚えのある顔が出てきた。
「あ」
「サッシャ! 久し振りー」
私の顔を見るなりパッと表情を明るくして手を振り叫んだのは、遠藤祥太その人だった。初めて出来た警察官の友人でもある。ああ、純は友人ではないのでカウントしない。祥太はその純と同期で、例の件で借り出された私が同い年だと知るや、大喜びで絡んできた。あまり他人には知られたくなかった名前を明かす羽目になったのは迂闊だったが、嫌な気はしない。少し子供っぽいところはあるが、人には好かれそうなタイプだと思う。
先月調子に乗って派手な金色に染めていた髪は黒――に近い色に戻っているが、まだ完全に戻ってはいないらしい。私もいきなり真っ黒には戻さない方が良かったか――まぁ、もう面倒だからこれでいい。そんなことに違和感を持つ人など居ないだろう。
「今日もなんか呼ばれたの?」
「いや、報告書だけ」
「だけ? 暑っついのに大変だね」
祥太が苦笑する。
確かに、他の用事が何もないというのも、憂鬱になる原因かも知れない。私も一緒になって笑った。
「オレ今日刑事課には近付きたくないなぁ。余計暑くなりそう」
「? 何かあるのか?」
「え? ああ、騒がしくなかった?」
ああ、さっきのあれのことか――。特別興味はないがあれは何なのか尋ねると、祥太は迷惑そうに肩を落とし、脱力した顔でヘラと笑った。
「羽田杜の方であった殺人の被疑者なんだけど、もう朝から大騒ぎでさぁ」
「へぇ」
市内で言うところの羽田杜というのは大抵市名ではなく町名を指す。住所で言うと羽田杜市羽田杜となり、市の西部一帯がそうだ。市役所などは大体そちらにあるので何度か足を運んだことはあるが、地元ではないのであまり詳しくはない。買い物なら地元か、上る方の隣町で大抵事足りるし、それでも駄目なら都心に出てしまうから、西に下る機会自体がほとんどない。
……ああ、殺人事件の話だった。
「状況的には明らかに怪しいらしいんだけど、俺じゃない俺じゃない、ってずっと言って全然話が進まないんだって」
彼の台詞の中のある言葉に、頭の中の何かが引っ掛かった。
何か――……頭の中の奥の奥にずっと仕舞い込んでいた何かに、急にスポットライトが当てられたような。
これは――何だ?
ああ、……不快だ。嫌な脳内物質が出ている。何の関係もない祥太には申し訳ないが、無意識に嫌な顔をしてしまっているかも知れない――。
ぼーっとしていると、パシン、という乾いた音でハッとした。
「こら、遠藤。またペラペラと喋る」
萩原健吾。階級は祥太と同じだが、年齢は六つほど上らしい。ついでに身長も上で、太い眉と寸分の乱れもないオールバックが印象的だが、先月の作戦中のように前髪を下ろしていた方が若く見えるように思う。勿論、口に出しはしないが。
先月の作戦と言えば、健吾さんは素人である私を巻き込むことにはずっと消極的で、最後まで「命令だから従うのみだ」と言い続けていた。私は目立ちたがりの名探偵ではないから、こういう人が署内に居てくれた方がむしろ安心できる。嫌いだからと言って協力してくれないとなれば別だが、彼はそうではない。
書類で頭を叩かれた祥太は苦笑しながら、私に手を振ってどこかへ去っていった。元々何か用事があって部屋から出てきたのだろう。雑談で足止めしてしまったのなら悪いことをした。
その場に、私と健吾さんとが残る。
「――あの事件に興味あるのか、『名探偵』?」
彼は腕を組んで廊下の壁に寄りかかりながら、私の方を睨んでそう言った。どうやら、何か勘違いされているようだ。あの事件というのは、祥太が言っていた「騒がしい」被疑者の事件のことだろうか。
「いえ、そういうわけでは――」
「何度も言うが、俺は素人を巻き込むことには反対だ。今の署長に気に入られているからと言って、調子には乗るな」
相手が相手ならカチンと来るであろう台詞を言われたが、全く気にならなかった。恐らく自分も同意見だからだろう。一般人として大人しく自分の店に篭っていたい。
「重々承知しております。出来ることなら私も関わりたくはありませんので」
「最初は現場に首を突っ込んできたと聞いたが?」
しまった、そういえばそうだったか――。
純から連絡を受けて勝手に現場に入り込み『名探偵』を気取り、純と共に下手くそな舞台を繰り広げて解決に至らせた。……今から思えばひやひやものだ。もしあの時解決できなかったら、私は店を畳んでどこかに引き篭もるしかなかっただろうと思う。
この際、腹を括るしかない。この人に嘘は吐きづらい。
「……契約なんです。純との」
「茨木? ほう、弱味でも握られているのか」
笑いながら訊かれた。当たり前の会話が、どこか面白かった。
「弱味……かも、知れませんね」
素直に、答えた。しかし、健吾さんからの返答はなかった。
その代わり、別の話が始まった。
「俺は曖昧なことが嫌いでな」
「はい?」
「――先月の『博士』の件。お前の弟とその愉快な仲間たち、どうやって入ってきた」
やはりまだ気にしていたのか。否、あんな状況に出くわしたらいつまでも気になるのが普通だし、もし私が健吾さんの立場なら訊きたくなるだろうと思う。
だが――……残念ながら話すわけには、いかない。
私自身の話ならまだともかく、やったのが柘榴さんでは論外だ。それを私が勝手にバラしてしまっては、後で厄介なことになりかねない。
「私に訊かれても困ります。私だって驚いたんですから」
嘘は吐いていない。
「そうか? お前も何か手品をやっていたように見えたが、あれはどうだ」
健吾さんも想像以上にしぶとい人だ。気にしていなかったように見えて、実際は見ていたらしい。やはり警察は侮れない。いや、むしろそうであってこその警察官か。頼もしく思えた。
私がどう答えようかと黙り込んだのを、彼はどう解釈したのだろうか。私が返答をする前に、さらに詰問を続けた。
「三月の連続通り魔。あれもお前に依頼が行ってたらしいな。あれは稀代の珍事件だと思うが、どうか」
曖昧なことが嫌いだというのは決してこの場限りの嘘でもなければ、生半可な説明では納得してくれない筋金入りらしい。
そしてよく考え――るまでもなく、今までの三つの質問全てに、私は答えられていない。完全に劣勢だ。
「被害者の死因が実際に全て心臓発作である以上、私たちにはどうすることも出来ないと思いますが」
「それがおかしいって言ってんだよ」
そう告げた健吾さんは、ニヤニヤと笑っていた。決して感情に任せて怒るようなことはなく、こちらの出方を窺いつつ、自分の話に誘導していく。――なるほど、話をしていて飽きない人だ。
この人ならあるいは、――任せられるかも、知れない。
「――真実を、聞きたいですか?」
「ほう? やっぱり何か隠してたんだな?」
健吾さんの目の色が変わった。
「万人に受け入れられる真実ではありませんので」
「言ったろう。俺は曖昧なことが嫌いだ」
それは暗に、『話せ』と言っていることになる。いや、当たり前か。私が『知っている』と言ってしまったのだから、それを話せと言わない方がおかしいというものだ。
話してしまっても、いいのだろうか。
この人を――この人の現実を、壊してしまうことにはならないだろうか。
純はそう言って、課長に話すことを拒んだ。かつて私が、彼の現実を、彼の世界を、何の予告もなく破壊してしまったことを、彼はまだ根に持っている。
しかしこの人は、それ以上に――隠し事を嫌うだろう。
事実を知った上でそれを信じるか信じないかは、健吾さんの自由。信じないことにしてくれるなら、それでも構わない。私にはそれ以上の『真実』の持ち合わせはない。
「犯人は超能力を使って人を殺していました。被害者の身体に触れずに、心臓を直接止める形で殺害します。――だから、物証がない」
後から刺したナイフについては言わないでおいた。あれは恐らく、ナイフでも何でもない物体からナイフに変化させて、やはり一切触れずに刺したのであろうものだ。いきなり言うには刺激が強すぎる。
私の言葉を聞いた健吾さんは、しばらく俯いて考えた後、釈然としない表情で再び私の目を見た。
「超能力が、存在するってのか」
普段と全く変わらない、淡々とした反応だった。本当に、驚いてもいないのだろうか。それとも単に、突拍子もない冗談だと思っているだけなのか。
「えぇ、残念ながら」
「ではお前のあれも、超能力か」
飽くまでも無視はしてくれないらしい。今まで納得の行かなかったことは全て覚えているのだろう。
やはり人前で、しかも警察官の前で疑われるようなことをするべきではなかったか――。
「そうだと言って、信じてくれるんですか?」
「証拠さえあればな」
「……純以外の誰にも言わないと、約束してくれますか?」
健吾さんは少しだけ目を見開いて首を傾げた後、小さく頷いた。
少しだけ、迷った。
迷ったけれど、その場の勢いには、勝てなかった。
ポケットの携帯電話を、腕を組んだまま、取り出す。目の前で開いて新着情報の有無を確認し、再び閉じて、ポケットに戻そうと――、
「――ッ!」
する前に、健吾さんが空中に浮かぶ、、、、、、私の携帯を奪い取った。何度も開いて閉じて、眉間に何本も皺を寄せながら、必死に何かのタネがないかを確認している、らしい。そんなものはあるわけがない。それはただの携帯電話であって、おかしいのは私の方だ。
「スプーンを曲げるより、手っ取り早くていいかと思ったんですが」
「……お前の運動神経はどうなってるんだ」
眉間に皺を寄せたまま、健吾さんは私に携帯を差し出す。私はそれを触らずに受け取って、元のポケットへと戻した。
「それは私が一番知りたいです」
神経そのものは身体の範囲内で収まっているはずだが。……細かいことを考えても無駄か。だからこそ、これは『魔法』なのだ。超能力だと言うには、多少度が過ぎている。
「……冗談じゃ、ないんだな」
やはり冗談だと思っていたらしい。
「冗談なら苦労しません」
それからしばらく、お互い黙り込んでしまった。
やはり、話すだけにしておくべきだったか――? 高校時代のあの日から十年近く経っても全く成長していない自分に腹が立った。
「……皮肉なものだな。『名探偵』本人がファンタジーな存在とは」
健吾さんが静かにそう呟いたのが、聞こえた。
皮肉、――なのだろうか。
母は科学者だった。私もこの世界の仕組みが、構造が知りたくて、夢中になって勉強した。――でも、自分自身がそれを破ってしまう。非現実を作り出せてしまう。皮肉、なのかも知れない。
でも、それでも私は、現実世界を捨てたくなかった。
「この世界は、案外自由なものですよ。どこまでがSFで、どこからがファンタジーかなんて線引き、私には出来ません。その事実が存在するなら、それは確かに『ある』んです。私たちにそれを否定など出来ません」
私が私自身を認めなければ、自己矛盾した存在になってしまうから。その時点で私は消えてしまうから。
――魔法が、超能力が存在してはいけないと、誰が決めた。
こうして存在してしまっているものを認めようとしないのは、ただのエゴだ。ただのエゴで、今までにどれだけ多くの異分子が葬られてきたのだろうかと思うと、背筋が寒くなる。
私の話を聞いて、健吾さんはほう、と嘆息した。
「『名探偵』はリアリストばかりだと思っていた」
「私はこれで結構リアリストですよ」
そこにあるものを受け入れる、それ以上のことはしていない。
「……すると、待て。弟と愉快な仲間たちが潜入できたのは――」
「あれは本当に私じゃありませんから」
やっていないことまで責任を負うほど、私はお人好しではない。健吾さんは私と一瞬見つめあった後、気まずそうに目を逸らして眉間に皺を寄せた。
「……そんなにゴロゴロ居るのか、超能力者と言うのは」
この世界には、超能力者のみならず得体の知れないものがうじゃうじゃと居るわけで――。現代科学至上主義の人間にとっては恐ろしい世界でもあり、それは勿論私自身が抱えている矛盾であり悩みでもあるのだが。
まぁ、世の中には知らない方がいいことも、ある。
「たまたまです。もしかしたら貴方の隣に、程度の認識でいいと思いますよ」
「……なるほどな。――……しかし、不思議だ。超能力者と言うのはもっと力を見せびらかすものじゃないのか」
それは、メディアに登場する超能力者が恐らく皆目立ちたがりだからだ。普通の女の子に戻りたいと言って解散した某アイドルと同じように、普通の人として生活したいと願う超能力者が居てもおかしくないだろうと思う。そもそも私の場合、見せびらかすことが規律で認められていない。
それに、
「私も、この世界が好きですから」
超能力者である前に一人の人間なのだと、思わせて欲しい。
――それすら許されなくなった時、私は命を絶つより他にない。
健吾さんはふぅと一息つくと、今まで私には見せたことのなかった穏やかな笑顔を見せた。
「長話に付き合わせて済まなかった。余計なカミングアウトまでさせて」
「いえ。約束さえ守っていただければ――、」
別に気にしませんよ、と続けようとしたところで、刑事課の方から凄まじい音と声が聞こえてきて制止させられた。また例の被疑者が暴れているのか――。
健吾さんが呆れ顔でこぼす。
「……やったのは俺じゃない、んだと。本当か嘘か知らないが、一体いつまで続くかな」
まただ。一人称の差異など大した問題ではない。
――『僕じゃないって言ってるだろ!?』
そうだ。
本当か嘘かは知らないが――どちらにしろ、やっていたのはその被疑者と同じことだ。その私が彼を迷惑がることなど、きっと許されない。警察署は私にとって居心地の悪い場所だ。
どうして私はまた、こんなところに居るのだろう。もう二度と世話になどならないと、穏やかに一生を送ろうと決めて、戻ってきたはずなのに。
「――……嘘であることを、願います」
「だといいな」
そうして健吾さんと別れて、また炎天下のもとを走って自宅に戻った。
こんな時に限って踏切がなかなか開いてくれなかったのは、ただの気のせいだと思いたい。
2
――その呪いの言葉と異様な熱気が、トリガーになったらしい。
中学校が春休みに入る少し前、学年末試験も終わって退屈な、日曜日の午後だった。ホワイトデーなんて僕には関係のないことだ。何か術で遊んでいるらしい兄たちを横目に、僕は縁側で寝転がって、まだ幼いサブローと日向ぼっこしていた。
そんな、ただただ退屈な時間だった。
舟をこぎ始めたサブローにつられて、僕もうつらうつらし始めていた。
そうして、完全に意識が途切れたと思った矢先だった。
突然、葉摘さんの悲鳴が聞こえたような気がした。傍に居たサブローが必死に吠える声に、驚いて飛び起きる。兄さんの居るところで、何か光が揺らいでいる――……あれは、火? どうしてこんなところで火が出る?
それはともかく――、服に火が燃え移ったなら、すぐに消せばいいじゃないか。
ほら、そうやって手で払って――……、どうして消えない?
「――ッ、サネっ、見てないで協力しろッ」
「! ん、うん」
協力しろと言われても、兄さんに消せないものを僕に消せることがあるのか。
僕が力を入れた瞬間、ブワッという音がして、今度は葉摘さんの服に火が燃え移る。
「何で……! 兄さんもちゃんとやれよ!」
「ば、馬鹿野郎、やってるに決まって……ッ、何で……っ」
さらに力を入れようとして、留まった。
僕が消火に協力しようとすると、さらに燃え広がっていた気がする。
……どういうことだ?
まさかそれじゃこれ、まさか――。
その刹那、葉摘さんの顔が見えた。
彼女は、幸せそうな顔で、笑っていた。
「どうしたの!? 何やってるの、はやく消しなさい!」
はっとする。――母さんの声。
そうしている間にも、火は庭の木を巻き込んでどんどん燃え広がっていく。僕は協力しようにもどうしていいのか判らず、何も出来ないでいる――。
「それが出来ねえから困って……ッ、来るな母さ、げほっ、サネ、水……ッ」
兄さんに言われた僕は、慌てて頷いて水を汲みに行こうとする。そうだ、素直に水で消せばいいんじゃないか。何を迷うことがあるのか。庭に下りて水道を目指す。
でもその間に、何も知らない母さんが二人に近付いていく。
「あ……」
母さんはきっと僕と同じように、あれを消そうとしてしまうだろう。
僕よりずっと、きっと何倍も強い力で。
駄目だ。そんなことしたら皆死ぬ――!
「母さん、駄目だ! 駄目……、」
「え? ――……は……あ、ぁあああぁああッ!」
そこで、壊れたビデオテープの再生は一旦止まる。
僕ももしかしたら、一緒になって叫んでいたのかも知れない。でも、覚えていない。
気付いたときには、僕は三人だったものを目の前にして、まだ炎に包まれている庭の中心に、呆然と立ち尽くしていた。彼らを何とか修復しようとしても、もう無駄だった。僕の力では、失われた命はもうどうにも出来ない。サブローが、怯えた声で延々と吠え続けている――。
ここでようやく、父が慌てた様子で姿を現す。縁側から僕の方を見下ろして、いつもの――いや、いつも以上に冷たい声で、言う。
「これは、……直実――まさか、お前が」
お前がやったのか。
僕が、三人を殺した?
違う。そうじゃない。そうじゃないと――思いたい。
僕は火を消そうとしたのであって、――。
「ちがう、僕じゃ……ない、僕じゃない、僕じゃないよ父さん、僕は」
「うるさい、うるさい! 言い訳をしている時間があったら消防と救急車を呼ばんか!」
「ひ……ッ、はい……」
怯えた様子で擦り寄ってくる犬の頭を一度だけ撫でてから、僕は言われるがままに電話機を目指した。
目指して彼の傍を通り過ぎた瞬間、嘆息と共に零した彼の呟きが、確かに僕の耳に届いた。
「――……予言通りだ……」
予、言? 誰の? そもそも何の話だ? よくわからない――。
その後は、きっと無我夢中で電話を回したんだと思う。泣いていたのか、泣いていなかったのか、もうぐちゃぐちゃで覚えていない。
僕の脳裏に焼き付けられているのは、真っ黒になって顔も判らなくなった三人の、折り重なった、身体だったもの。
……何だろうか、これ。
こんなの、葉摘さんじゃない、兄さんじゃない、母さんじゃない……! どうして僕が彼らをこんな風にしなきゃいけない? 僕はそんな風に見られているのか?
父さんの中で、僕はこんなことをしても奇妙しくない人間なのか?
いや、こんなことをするのは人間じゃない――。
それじゃ僕は、人間と思われてすら居ない――……!
この身体は、この両手は、本当に人間なんだろうか。
父さんの言うように、僕は本当に悪魔の子で、自分だけが人間だと思い込んでいるだけなのか。
そんなこと――……そんなこと、考えたくない。
部屋の隅にうずくまって、得体の知れない何かに怯えながら、時が過ぎるのを待った。
「……僕じゃない、のに」
「真相はすべて闇の中だ。お前が正直に語らなければな」
――人の声。父さんはいつの間に部屋に入ってきたのだろう。
そんなことはどうでもいい――……正直に、だと? 彼は僕が全て知っていて、それでいて尚黙っていると思っているのか? 冗談じゃない。
僕が思わず睨み付けたのを、彼は肯定と取ったらしい。
「お前はやはり闇に堕ちたか。極力甘やかさずに来たつもりだが、人間の力には限界があるということかな」
そして鼻で笑う。悪魔の子を人間が育てても、人間にはならないと言いたいのか。
「うるさい……あれは事故だ、誰も悪くない」
「……事故、な」
その符合に、父は苦々しげに笑って。
僕の周囲では、やたらと『事故』が起こると――そう、言いたいんだろう。
僕は最初から、闇に纏われていた子供だった。
そう、生まれたときから。
生かしておけば災いを招くと言われた。
掟に厳格だった母方の祖母は、死ぬまで僕の名前を呼んでくれなかった。
それなのに、僕はまだ生きている。誰かの意思で生かされている。
――その結果が、これなのか。
結局僕は、自分が悪魔だと認めなければならないのか。
「では、直路の不注意が招いた事故ということにしておこう。この話は、もうしない」
「……父さん……?」
「たとえお前がやったとしても、警察がそれを信じるわけもないしな」
自分だけが真相を知っているとでも言うつもりか。
――冗談じゃない。
久々に、頭に血が昇る感覚を覚えた。
「……はッ、上等だな! 見てもいないのに僕がやったと思い込んで満足か? ははっ、笑わせる。『悪魔の子』をこの歳まで生かしておいてこの仕打ちか。だったら最初から殺せよ! 判ってたんだろ? 僕が悪魔だって判ってたんだろ? なら殺してくれればよかった! あんたの自尊心のためだけに生かされるぐらいなら、何も判らないうちに殺された方がずっとマシ、――……ッ」
煮えくり返った腸の熱を一気に全部放出してやろうとしたが、襟首をつかまれ、物凄い力で持ち上げられた。一体この男のどこからこんな力が出てくるのだろう。
「何も知らないくせに生意気なことを言うな。警察の世話になりたいなら行って来い。どちらが正しいかはいずれ判ることだ」
行って来い、って――行っても信じるわけがないと言ったのは誰だ?
僕の考えていることが判ったのかどうかは知らないが、父は嘲るように笑った。
「警察もそのうちお前に目を付けるだろう。――もっとも方法までは判らないだろうが、庭のホースが全く使われていないことにはすぐ気付くだろうな」
「間に合わなかっただけだ!」
「……言いたいことがあるなら警察に言え。私はもう知らん」
突然手を離され、重力に従って床に思い切り尻餅をつく。……息が出来ないほどの痛みが走った。
父が部屋を出て行く。
また、僕は一人になる。
――どこにも僕の味方は居ないのか。
『息子さんにお話を聞かせて頂きたくて』
そう言ってニコニコと笑っていた刑事の、豹変振りに驚いた。
久し振りに教室に顔を出した時の、同級生たちのよそよそしさに恐怖した。
認めなくても結局疑われるのなら、認めても認めなくても同じではないか。
だったらいっそ認めてしまった方が――……いや、良くはないか。これだから冤罪事件が無くならないのだ。
湯気の立つ紅茶のカップを軽く弾いて、広がる波紋を意味もなく眺める。
「おーい、ナオミ君、聞いてる?」
「え?」
目の前に人の顔。――麻耶か。近付きすぎだ。
やはり暑さで参っているのだろうか――……どうも調子が乗らない。思い出して楽しい映像などではないのに、何故このタイミングで記憶が修復されたのだろう――。
「もう、ボーっとすんなよなー」
彼女はそんなことを言いながら、私が防御する前に素早く手を出してきて、デコピン。……額の左側がジンジンする。
「……痛いんですけど」
「だってわざと強くしたし」
そんな堂々と嬉しそうに言わないで欲しい。
思わずため息を吐いて目を逸らした先にみっちゃんが居て、野菜くずを黙々とつついている。別に顔見知りではない二人組の女性客が興味深そうにその姿を眺めているが、まさかこれの中身が人間だとは思うまい――。……本人も人間とは思うなと言っていた、か。私の視線に気付いたのか、レタスの切れ端をくわえたまま顔を上げて少し首を傾げる様はまさしく鳥だ。少し可愛いなどと思ってしまった自分に嫌気が差してくる。
「何だよー変な顔して。嫌なことでもあった?」
麻耶はやけに大袈裟に肩をすくめてそう言う。いちいちオーバーアクションなのが目に付く。ついでのように楓さんと顔を見合わせて、わざとらしく首を傾げるのもやめて頂きたい。
まぁ、昨日のあれは確かに嫌なこと――……なのかも知れない。私が勝手に嫌な気分になっただけ、ではあるが。
改めて息を吸って答えようとしたまさにその時、ドアが開く音がしたので、麻耶への回答の言葉は一旦飲み込むことにする。
「いらっしゃいま――……、せ」
「こんにちは」
そう言って笑った彼女は今日も赤い服に身を包み、後ろには海老茶色の髪の青年を引き連れている。
――夜桜緋十美と、浅生永樹。
例の『双子』の、数ヶ月振りの来訪だった。
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